[History/Feb.05]

2005年02月10日号 Vol,442

塾統~慶應義塾の伝統21 福田徳三

小泉信三氏らの俊才育てる
独文で日本経済史を執筆

ブレンターノ教授に師事

 福沢が戊辰戦争の最中に、いつもと変わらずウェーランドの経済学を講義していたことは有名であるが、慶應義塾における経済学の伝統は日本のどの大学の経済学の伝統よりも古いということは、特筆すべきことであろう。福沢が最初に経済学に触れたのは、おそらく文久二年(一八六二)にヨーロッパに渡航した際、イギリスでチェンバーの『政治経済学』を買って読んだ時であると思われ、続いてアメリカで出版されたウェーランドの『経済学要論』によって経済学に対する知識、理解が非常に進められたようである。そして、慶応四年(明治元年、一八六八)に芝の新銭座に塾の新しい建物が出来て慶應義塾と名が改められた際、その学課表の一番最初に「ウェーランド経済書講義、福澤諭吉」とあって、福沢が経済学講義を火、木、土曜日の朝十時から担当すると定められている。これが日本における経済学講座の最初であり、福沢自身も「心魂を驚破して食を忘れゝに至れり」「ポリチカル・エコノミーは実に面白く、其議論の精密なること着々意表に出でゝ」などと述べているので、慶應義塾の学問と教育において経済学は特別な位置を占めると言っても過言ではないであろう。
 この経済学の伝統が次なる飛躍を見せるのは、明治二十二年(一八八九)に大学部を設置し、ハーバード大学総長エリオットに推薦を依頼して、大学部教授としてアメリカから三人の教授を招聘した時である。この時、来日したのが、経済学担当のドロッパーズ(「義塾史を離れてもわが国の初期経済学史上逸すべからざる人物」と評価されている)、文学担当のリスカム、法律学担当のウィグモアであり、理財科(後の経済学部)主任教授として九年間奉職したドロッパーズの後にはヴィッカースが来て、経済学のほとんどあらゆる問題について講義し、多大な感化を与えたようである(小泉信三はヴィッカースについて、「これは私どもの教えを受けた先生でありますが、非常に誠実な、また人品のいい先生でありましたために、札幌農学校におけるクラーク先生とは流儀は違うかも知れませんけれども、当時の生徒によい感化を与えた先生であります」と当時を回顧している)。
 そして、第三の波となるのが欧米留学で第一級の学問的薫陶を受けた者達が帰国して後進の育成に当たり、近代経済学の本格的導入を図った時期である。福田徳三が慶應義塾大学で教壇に立ったのはこの時であり、こうした使命を担って慶應義塾が派遣した堀江帰一(福沢も早くから注目し、「堀江のような奴が出るので、己れは教育を止められない」と語っている)、気賀勘重(堀江と共に「慶應義塾理財科の双璧」と言われた)、名取和作(コロンビア大学で学んだ後に慶應義塾教授となり、後に実業界へ出た)、堀切善兵衛(米・英・独に留学し、特にマーシャルの影響を強く受けた)らの貢献も大であった。ことに福田は日本の近代経済学において「全ては福田徳三に始まる」「そびえ立つ高い山」とまで言われた存在であり、慶應義塾における経済学の発展も彼を措いては語ることができないと言えよう。
 さて、福田は明治七年(一八七四)に東京神田に生まれ、十一歳で受洗し、明治二十九年(一八九六)に高等商業学校(後に東京高等商業学校、東京商科大学、一橋大学となる)を卒業した後、明治三十一年(一八九八)より三年余りの間、ドイツを中心に留学した。ミュンヘン大学ではブレンターノ(新歴史学派の代表で、ミュンヘン大学で経済学を指導していた)に学んで、明治三十三年(一九〇〇)に博士号を受けている。ちなみにブレンターノは同年十二月、ドイツの雑誌に次のような文章を寄せている。
 「自分の経済史を聴講している学生の中に、大変聡明な一人の日本人がいる。彼の名前は福田徳三と言う。ところが、彼はいつも笑いを浮かべながら、鋭い眼差しで講義を聞いている。そこで彼に、一体どうしてそのように笑いを浮かべているのかと尋ねたところ、彼が言うには、ヨーロッパの経済史についてブレンターノ教授が講義するところを聴くと、ほとんど多くの点が日本の歴史と一致している。それがまことに興味深い点であると答えた。自分は福田に、それでは日本の経済史をひとつヨーロッパの読者に紹介してはどうかと言って、一つの研究を彼に委嘱した。その研究が今ようやくここに出来上がった。題名は『日本における社会・経済発展』である。」
 ブレンターノは福田の仕事を促進させるために、ミュンヘン大学の講師をしていた若い学者二人を援助に当たらせるほどで、原稿が一章出来上がるごとに彼の前で朗読させ、コメントをし、内容の訂正や示唆を与えており、夏にはブルーム湖畔にある自らの山荘に福田を逗留させて著述を続けさせたという。ブレンターノは完成草稿も校閲し、先述の寄稿文は「日本について」と題する編者序説となってこの本の冒頭を飾っている。これは独文による最初の日本経済史であり、一貫して外国からの一方的輸入をその特徴とする日本の経済学にあって、若干二十六歳の福田が著したこの処女作はこの時期における「逆輸出の唯一の見本」とされ、出版と同時に反響を呼んだことも注目に値しよう。
 やがて、明治三十五年(一九〇二)に帰国した福田は母校の東京高等商業学校で商業経済史を教えることとなり、多くの優れた人材を育てている。福田の弟子達に対するトレーニングは峻烈を極め、毎月約三千ページを下らぬ程度に書物に目を通すことを真面目に学生達に命じたという。ちなみに福田から「クールノーから入れ。続いてゴッセン、ワルラスを読め」と指示され、「クールノーの理論について数式抜きに二〇枚にまとめて報告せよ」といった課題に途方に暮れながらそれに応えていった中山伊知郎が、後にボンに留学してシュンペーターに師事した時、シュンペーターは「そういう指導をした人は一体誰か」と言って感服したという話は余りにも有名である。
 この福田が名取らの尽力で慶應義塾に迎えられたのは明治三十八年(一九〇五)年のことであり、以後約十三年間にわたって純粋経済学、経済政策、財政学の講義を担当し、高橋誠一郎、小泉信三(当時の理財科では福田の担当するクラスとそうでないクラスがあり、これに対して政治科では経済原論担当は福田一人であったため、間違いなく福田の講義を聴けるという理由からわざわざ政治科に進学したという)といった俊才をここでも育て上げている。福田はゼミ生に近代経済学者を一人選んでその著書を研究し、それを翻訳するように指導しているが、小泉にはジェヴォンズを、東京商科大学の大塚金之助(経済学史学会発起人、治安維持法による追放時に慶應義塾図書館の恩恵を受け、戦後は慶應義塾の教壇にも立っている)にはマーシャル、手塚寿郎(数理経済学のパイオニア的存在)にはゴッセン、中山(理論・経済学会〔現日本経済学会〕初代会長)にはワルラスとクールノーを当てている。ちなみに小泉によれば、当時、慶應義塾で経済学を教えていた福田と堀江の講義は対照的であったという。
 「堀江さんの講義は非常に明快で、まとまっておる。福田先生の講義ははなはだまとまっていなかった。しかし、そのまとまっていない講義にわれわれはまた非常にひきつけられたのであります。福田さんの方はわれわれに多くの疑問をいだかせる。しかしその疑問は先生自身も解いていないという場合がしばしばあった。堀江さんの方は結論は非常にはっきりしている。…福田先生の方は疑問をいろいろ起こさせる、しかし結論までは連れてってくれない、という場合がよくありました。堀江さんの方は結論がはっきりしておる、むしろ疑問を許さないという風なところがあったと評してよいかと思います。」(小泉信三「堀江歸一博士と慶應義塾の経済学」)
 「私たちは皆な博士の講義に魅了せられ、殊に私は熱中して、毎週先生の一言一句に耳を傾けるという風になった。」(小泉信三「福田徳三博士」)
 「さて今、老人となった私が回顧しても、自分の学問の経歴上において刺激を受けた先輩といえば、やはり福田博士以上に出るものはない。」(小泉信三「福田徳三博士」)
 実際、福田の関心分野は実に広く、経済理論から経済史と経済学史、社会政策や厚生経済学などの応用経済学まで多岐にわたり、歴史学派から始まって古典派からマーシャル、さらにはマルクス等の社会主義思想にも取り組み(日本における『資本論』の最初の翻訳は福田徳三監修・高畠素之訳であり、福田がプロゼミナールでカウツキー版の『資本論』を読んで講釈していた際には、東大から河合栄治郎らが聴講に来ていたという)、ピグー、ホブソン等の厚生経済学研究と様々な学問遍歴を辿り、慶應義塾で行なった講義をふまえて、マーシャルの『経済学原理』の第四編までをベースとして書いた『経済学講義』(中山によれば、「マーシャルを超えて理論的な骨格を作りたい」というのが福田の悲願であったという)や晩年の主著『厚生経済学』など、名著も多く著わしている。福田が昭和五年に死去した時には、『貧乏物語』で有名な論敵河上肇もその死を悼み、「ブルジョア学者としては、今日まで日本にあっては最も有能な最も博識な学者であつた」(『改造』)と述べており、敵(学問上のみならず、福田は東京高等商業学校でも慶應義塾でも実に多くの人と衝突している)も味方も等しくその力量に驚嘆、敬服していたことは事実であろう。

参考文献:『小泉信三全集18・20』(文藝春秋社)、『別冊太陽 慶應義塾百人』(平凡社)、『日本の経済学』(玉野井芳郎、中公新書)、『福沢諭吉 国民国家論の創始者』(飯田鼎、中公新書)、『日本の経済学者たち』(辻村江太郎、日本評論社)、『日本の経済学を築いた五十人 ノン・マルクス経済学者の足跡』(上久保敏、日本評論社)

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