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2008年08月10日号

塾生投稿『理想の医療を求めて』 T・Y君(医3)

  補完しあう関係必要

 義塾も百五十周年を迎えているが、医学部に関して塾長は、「世界トップクラスの患者さん本位の医療を提供する、世界を先導する学部・病院となってほしい」と述べている。このように他の分野と比べても独立して強調されている感がある。確かに、現代の技術が発展と栄華を極めようとしている要因のひとつは、明らかに医学に端を発するものが多いだろう。医療技術の躍進は目覚ましい。我々医学部生は医学の進歩の話ばかり聞かされていて、世間に漂う最近の社会問題や紛争、そしてそれを報道している新聞やニュースに見られるような暗い風潮に比べると、我々が持っている感覚としては“希望”という分野がより一層強いように思われる。

 では、医学は本来の目的を達成しつつあるのだろうか?医学に目的があるとすれば、それは、いかなる疾病に対しても完治する道筋を探し出しえるような事態を作り出すことであろうか。ところが、周りを見渡せば薬を作れば作るほどその薬に対する耐性を細菌が持ったり、原因はわかっているけども増え続ける肥満や、エイズなど、医学の発達に伴って生じている病気もあれば、一向に根治策の見出せない疾病も絶えておらず、決して医療は理想に近づいているとは言い難い。

 そもそも、医療の掲げてきた理想とはなんだろうか。ソクラテスの誓いにあるように、精神的健康と肉体的健康を同時に成り立たせしめるように患者に処していく、これはすでにWHOが宣言している健康の定義においても言われていることである。ソクラテス自体もそうであったが、古代から医者といえば、シャーマン的性格が強かった。精神的に励まし、癒していくことの効用は、子供に対する大人の「痛いの痛いの飛んでけー!」から、現代の治験におけるプラセボ(偽薬)に至るまで、あながち無視できないところがある。ところが、急激な科学の発達により、この薬を原因としてこの病気が治る、というのが明らかになって、目に見える形で医学が疾病に対する効果、患者を幸福にする効果が現れてくるようになった。医者の側はともかくとしても、患者の側は目に見える効用を欲しがるので、医療従事者側としても目に見える治療の研究が主流になっていかざるを得なかっただろう。最近学んだ内容だが、幼児の慢性骨髄性白血病の治療が、九〇年代に入ってから小さな分子を標的とした治療薬の出現によって、治療が格段に向上したという話には、少なからぬ驚きと感動を覚えざるをえなかった。その一方で、“目に見えない”治療が肩身の狭い思いをするようになり出しただろうことは、想像に難くない。

 もう少し大きな視点から事態を見つめると、“目に見えない”治療を苦労しながら実践していた段階に颯爽と登場した“目に見える”効用を示す治療が闊歩し出し、ある意味では“無秩序”に“目に見える”治療が発達した、ということになるだろうか。かといって、“目に見えない“治療がそれに対処できるかといえば、それも明確ではない。一つの例を挙げれば、どのように西洋医学を東洋医学が補完しうるか、ということは未知数な部分も多い。しかし、多くの医師が前者と後者両方の必要性を昨今認識し出しているように、”目に見える“治療を補う何かが必要なのである。穿った言い方をすれば、物質を構成する原子において陽子と電子がバランスを取って存在しなければならないのと同様、医療においてもある極が急激に発達したのを受けて、それに対応したある極の分野が発達しなければ、理想的な医療は実現する道筋が見えてこない、ということになるだろうか。それはまるで、近年日本に限らず言われている技術の発達に対する、精神の未成熟というテーマにも繋がってくるようにも思えるのは、私だけであろうか。
 

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