2008年05月10日号
105年の歴史刻む早慶戦

過熱する應援団
関係悪化で中止も
両校の初対戦は1903年11月21日、実に105年前までさかのぼる。早稲田が先輩格の慶應に挑戦状を申し込むかたちで行われた試合が、早慶戦の始まりである。その試合は11-9で慶應が勝っている。創部20年の歴史を持つ慶應に対して創部1年余りという格下の早稲田が善戦したことにより、慶應にも火がついたのか、翌年から定期戦が行われることに。翌年、当時最強を誇っていた一高野球部に早慶両校が連日にわたり勝利すると、早慶戦は日本球界の頂点を争う試合として注目を集めるようになった。
しかし、早慶戦の絶大な人気に伴い、両校の応援合戦も過度に激しくなっていく。06年秋、第1戦に勝利した慶應の学生が大隈重信邸と早大正門で万歳すれば、第2戦に勝利した早稲田の学生も福澤邸と慶應正門で万歳三唱するなど、両校応援団は一触即発となり険悪な状況に。さらなる事態の悪化を危惧した両校当局は、第3戦を中止に決定、以後、早慶戦は長い空白期間に入る。
14年、慶應・早稲田・明治による三大学リーグが発足し、続いて法政、立教がリーグに加わるが、早慶戦のみ行われない変則的運営が続いた。そうした中、25年の秋に東京帝国大学(現在の東大)が加盟、これを機に明大野球部長が、早慶戦復活に向けた新リーグ結成に強硬な態度を示したことなどもあり、これまで反対を続けてきた慶應OB側がようやく早慶戦復活を受諾。こうして東京六大学野球連盟が創設し、早慶戦復活が実現した。

球史に残る早慶6連戦
早慶戦の人気は、ラジオでの全国放送などで更に高まり、多くの伝説を残すことになる。33年には、早稲田側応援席から投げ込まれたリンゴを慶應3塁手の水原茂が投げ返した事に端を発した「水原リンゴ事件」が発生、再び早慶戦中止の危機に見舞われる。この事件以降、早慶戦では、早稲田のダックアウトおよび応援席は1塁側、慶應は3塁側に固定されることになり、この方式は現在まで続いている。
戦時体制下の43年、東京六大学野球連盟が解散。しかし、学徒出陣を前に小泉信三塾長(当時)の働きかけもあり10月16日、戸塚球場にて「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」が行われた。戦争が終結すると45年11月18日、神宮球場にて戦後初の野球試合である全早慶戦が行われた。当時、神宮球場は米軍に接収されていたため、進駐軍の協力を得ての実現であった。
60年秋のリーグ戦では、最終週の早慶戦で慶應が1勝2敗となった結果、早慶両校が勝ち点、勝率とも首位で並び、両校による優勝決定戦が行われた。一発勝負の決定戦で、試合は1-1の引き分け。再試合でも0-0の引き分けとなり、再々試合を早稲田が安藤元博投手の四連投により3-1で制し、ようやく早稲田の優勝が決定した。これが、いわゆる「早慶6連戦」である。塾員の中にも、この激戦を覚えている人は多い。
2007年秋までの東京六大学リーグにおける対戦成績は、慶應が165勝、早稲田が200勝、引き分け10となっている。