2007年01月10日号
塾統~慶應義塾の伝統 第42回 「政治家・実業家」 井上角五郎
第1回衆院選挙に当選
実業家としても多大な業績
福沢邸寄寓約10年に及ぶ
福沢との出会い、絆という点で忘れられない人物がいる。井上角五郎(一八六〇~一九三八)がその人である。井上は広島県福山市の農村出身であったが、藩の士族の子弟のみが入れる藩校誠之館に学業優秀の故に特別に入学を許され、「この藩中にお前のように記憶の良い者はあるまい」と言われるほどの才を見せ、藩主の御前で経書講義を行なったこともあったという。やがて、師範学校を経て教員生活を送っていたが、上京修学の思い止み難く、共慣義塾で英語の初歩を学んだ後、ついに福沢の門を叩くに至るのである。この時、井上は何人の紹介も請わず、突然かねてから憧憬していた福沢邸を訪れ、「何をしに来た」と言われると、「先生の御世話になろうと思って罷り出ました」と答え、重ねて「何が出来るか」と聞かれると「漢学ならば少々やります」と答えたため、福沢は傍らの本箱から一冊の本を取り出して「ここを読んで見るがよい」と『書経』湯誥(とうこう)編を示したという。そこで井上は大胆不敵にも「素読ならともかく、講釈をしろと仰せならば、それも致しますが、先生にはお解りでしょうか」とやってのけたので、福沢は「ちょうど子供達に漢学を稽古させようと考えていた所だから、教えてやってくれ」と言い、爾来、井上は漢学の家庭教師として福沢宅に住む込み、食事なども共にして、そこから慶應義塾に通学することになったという。時に明治十二年(一八七九)、井上十八歳の時のことである。
井上の福沢邸寄寓は前後十年に及び、その間に受けた感化教訓は多大なものがあったようで、例えば、「福沢先生の注意力と精力」と題して、井上は次のように述べている。
「勿論先生は大きい所にもよく気が届いていられたが、また如何なる微細な点についてもチャント心を注がれていた。偉人の精力というものは実際何処まで続くものかと思われたほどである。例えば鳥渡(ちょっと)人が来て腰を掛けて煙草を喫う、そしてその吸殻を棄てる。先生はその吸殻の棄て方にもチャンと気を注けている。『彼奴はどうも駄目である。煙草の吸殻をこんな捨てようをする。実に怪しからぬ男だ。』と斯ういう風に総べてに気がつく。この周到なる用意を以て、福沢先生は一家を修め、而して社会に処せられたのである。私が先生の傍らに居った時分に先生からいわれた事で、今に脳裏に沁み込んでいて、その事を懐い出すと顕然として先生の面影の偲ばれる事が実に少なくないのである」(「故紙羊存」)
やがて、井上は明治十五年(一八八二)七月に慶應義塾を卒業しているが、福沢から朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙のためには朝鮮語による新聞の発行が不可欠であると教えられ、学事顧問として朝鮮政府に招かれた同門の牛場卓造、高橋正信に随行して現地に渡り、朝鮮における最初の新聞の発行に成功している。これは同年十月に、壬午事変で日本人十三名が殺害されたことに対する謝罪使(名目は修信使)として日本に派遣された朴泳孝、金玉均らが福沢邸を訪問し、朝鮮の前途について意見を求めたことに端を発しているのだが、現地の状況には厳しいものがあった。
「明治十六年一月、海路仁川着、陸路は朝鮮駕籠により京城着、ところがこの頃、宮廷は既に閔氏一色に固められ、その上清国駐兵があり、宮廷には日本に学び日本に頼って独立を達成しようとする人々の勢力は全くなく、一行は全く疎外されて顧られず、身辺の危険さえある有様で、新聞発行どころではないとし四月に帰国する」(井上真六「井上角五郎と甲申の乱前後」)
井上は牛場、高橋が帰国した後も踏みとどまっているが、福沢は明治十六年(一八八三)七月一日の書簡の中で「其御地御滞在の義は、何の事情に拘はらず、唯一身実学の為と思ひ、長く居すわり候方可然存候」と述べており、井上に多くの希望を託していたことが分かる。井上も後年、「私は、朝鮮での新聞発行の企画が世間の注意を惹き、福沢先生が時事新報の社説で発表されたのに、万一にも慶應義塾以外のものの手に成るような事があったら、私としては生きて居られぬ心地がしたのであった」(「福沢先生の朝鮮御経営」)と述べているが、やがて外衙門(外務省)顧問となり、ついに近代的新聞『漢城旬報』の発行(十日に一回、文章は純漢文)にこぎつけたのであった。同紙は朝鮮の近代化を目指す言論機関として、金玉均ら独立党の路線に沿うものであり、これを喜んだ福沢が民衆の間に読者を獲得すべく、「仮名文字」(ハングルのこと)を使用することを井上に勧めていることは注目に値しよう。結局、清国の力を背景にした閔氏一族の独立党への圧迫は強くなり、『漢城旬報』が清国兵の京城での暴行を非難する記事「華兵凶暴」を載せたところ、李鴻章から朝鮮政府への抗議があって情勢は険悪となったため、井上は責任を取る形で明治十七年(一八八四)五月に辞職し、『漢城旬報』もそれによって廃刊に追い込まれてしまった。その後、明治十九年(一八八六)に『漢城周報』として再び発行(一週間に一回)されるようになった時、井上は再び編集指導として採用され、この時に始めて漢字とハングルの混交文が使用されている。発行部数は約三千部であり、しかも読者は主に役人であったため、この新聞自体は庶民には浸透しなかったが、井上が日本で鋳造したハングル活字を使って印刷しており、これが「近代ハングル」の始まりとされている点は見逃せない所であろう。
やがて、帰国後の明治二十年(一八八七)六月には福沢にアメリカ移住を勧められ、井上は三十数名の広島県人者を連れて渡米した。この頃、アメリカ本土への移民はまだ学生が主で労働目的の移民は多くなかったが、井上はカリフォルニアで農業を営んで『時事新報』」に体験を寄稿し、これを読んで移民を志した者も少なくないと言われている。明治二十一年(一八八八)にアメリカから帰国すると、慶應義塾在学時代から知遇を得ていた後藤象二郎(福沢の紹介によってその秘書役となり、学資の補助も受けていた)の大同団結運動に参加し、明治二十三年(一八九〇)の第一回衆議院議員総選挙に出馬して補欠当選した。以後、大正十三年(一九二四)まで連続当選十三回に及び、第一回から第四十七回までの帝国議会に参加しているのである。
井上はまた、実業家としても北海道の炭礦鉄道事業に多大な業績を残しており、さらに経営不振に陥った京都電気鉄道社長に就任して再建したり、矢作水力(後の中部電力)や名古屋火力発電所を設立・起工するなど、多くの炭鉱や発電所、鉄道の開発・整備に辣腕を振るっている。その他、日本で最初にブリキの大量製出に成功したり、北海道人造肥料、日本ペイント、歌舞伎座、品川銀行、千代田生命保険、日本瓦斯、日本人造絹糸(後の帝人)といった多くの会社・銀行等の経営者・役員も務め、帝国鐵道協会副会長などの要職を歴任したり、国民工業学院理事長として工業道徳の振興に力を注いだりしているのである。ちなみに明治四十二年(一九〇九)に『国民新聞』が「手腕ある実業家は誰か」として一般投票を行っているが、井上はそこで最高位に選ばれている。
こうした井上の処世を早くから見抜いていたのは、やはり福沢であった。福沢家の食客時代に女中が帰郷して人手が足りなくなった時、井上は誰に言われるでもなく、朝暗い中から起きて桶に冷水を汲み、縁側から家の内を毎朝雑巾掛けして女中代理を勤めていたという。福沢も早起きであるが、井上はそれよりもさらに二時間早く起きて拭き掃除を済ませておくので、不思議に思った福沢がある朝、井上に気付き、「もう掃除は止した方がよい」と言うも、井上が構わずに雑巾掛けを続けていると、「お前は偉い者だ。もうその念慮が一つあれば、生涯どうしても世に立って苦しい事はない。実にその心掛け一つである」と非常に賞賛し、大変悦んで次のように訓戒したというのである。
「世の中には縁の下の力持という事がある。これは働いてもその働きが人に見えぬという意味であろうが、人間は人の前でばかり働いて、それを見せた結果、一時は用いられても、それは決して永続きはしない。しかし縁の下の力持は、たとえその働きは人に見られずとも、決して生活に苦しむような事はない。知られるを求めずして働き、そしてそれが自然に人に知られたら必ず永続して用いられる」
参考文献:『伝記叢書43 井上角五郎先生伝』(近藤吉雄、大空社)、『福沢諭吉 国民国家論の創始者』(飯田鼎、中公新書)、『無冠の男(上)』(小島直記、新潮文庫)
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