2005年08月10日号
白井厚名誉教授に聞く
平和への一歩は戦争知ることから
太平洋戦争終結から今年で六十年、当時国内の大学で最も大きな戦禍を被った義塾であるが、その正確な記録作成と塾生の戦争体験の継承に大きく貢献してきたのが、白井厚・本学名誉教授である。当時の状況について詳細な研究の進まない大学も多い中、白井名誉教授のゼミナールでは、学生が主体となり、資料の収集をはじめ、塾生の戦争体験に関するアンケート調査や膨大な戦没者名簿の作成など多大な成果を挙げてきた。本紙では白井名誉教授に、当時の塾の様子などについて話を聞いた。
――当時の学徒出陣の実情についてお聞かせください。
当時、満二十歳になった男性は徴兵検査に合格すれば、兵役につく義務があったのですが、学生に関しては卒業まで徴兵が猶予される特権がありました。しかし、戦況が激しくなるにつれ下級将校が不足したため、特権は停止され、二十歳を過ぎた学生を検査して、軍に投入しました。これを「学徒出陣」といいます。一九四三年十一月、塾でも出陣塾生壮行会が行われ、臨時徴兵検査を受けた学生四千二百六十八名のうち、三千人以上がこの時に入隊しました。ただし、医学部の学生は、卒業後に軍医になることが求められ、また工学系の学生は、当時の戦争において重要視されたエンジニア養成のため、入営が延期されました。「学徒出陣」の結果、多数の塾生が戦地に赴き、今度発表する新しい戦没者名簿では、日中戦争以降の塾関係の戦没者数は二千二百二十四名に上ります。
――戦争に向かう学生の思いとは?
私のゼミナールでは、一九九一年から「太平洋戦争と慶應義塾」というテーマの下で共同研究を行い、その中で、昭和十七~二十四年卒業生七千五百人を対象に、戦中の学生の生活と意識に関するアンケート調査を行い、塾内外から大きな反響をいただきました。
当時は、勇んで戦地に向かったのは全体の二割程度とのことです。反対に、体質的、性格的に軍隊に向かない、あるいは反戦思想から、戦地に向かうのを嫌った学生が約一割。残りの七割は、仕方がない、と考えたようです。仕方ない、という理由としては、連合艦隊司令長官戦死など日本が危うくなってきたこと、「国民皆兵」が国民の義務として浸透しており、忠君愛国を教育されていたことがあります。そして、高等教育を受けられるのは同年代の約三%に過ぎず、大学生にいたっては二%という大変な特権でした。それゆえ、小学校の同級生などが皆戦地に向かう中、学生でいることに対して、申し訳なく感じていた人も多かったと思います。
慶大生は割と海軍が好きでした。泥臭いイメージの陸軍に比べて、海軍はイギリス型を採用してスマートで、英語も普通に使用し、外国の情報も入りやすいと思ったからでしょう。
――今の若者に伝えるべきこととは?
有史以来の惨劇であるあの戦争のことをもっと知って欲しい。日本で三百十万人亡くなっただけでなく、アジアで二千万~三千万人も死んだと言われます。そのことを考えなければ、アジア諸国との友好関係は築けません。
また、平和研究とは戦争研究であるということを認識してほしい。戦争の実態を知らないで平和を求めることはできません。日本では、戦争放棄は戦争研究放棄であるという雰囲気が少なからずあります。
一旦戦争が始まれば、経済を始めそれまで積み上げた全てのものが一瞬で跡形も無くなるほど、戦争・平和というものは根本的な問題です。

三田山上の「還らざる学友の碑」。
大戦で、志半ばにして逝った学友を偲び、かつ永く記憶にとどめるための記念碑として1998年建立された。
石碑にはこう記されている。
碑文
「還らざる友よ
君の志は
われらが胸に生き
君の足音は
われらが学び舎に
響き続けている」
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