2005年01月10日号
塾統~慶應義塾の伝統⑳ 池田成彬
日本金融界の大立者
日銀総裁を経て大蔵大臣に
政財界に太い人脈築く
慶應義塾の伝統として、「財界に強い」「ネットワーク形成力に長けている」ことが挙げられるが、そのいずれにおいても抜きん出ていたと思われるのが池田成彬(しげあき、せいひん、一八六七~一九五〇)である。池田は三井銀行を近代的商業銀行として大成させ、さらに三井合名会社(三井物産、三井銀行、三井鉱山に代表される三井財閥の中核をなす持ち株会社)常務理事として「財閥筆頭」と位置づけられる三井財閥の改革を成し遂げ(三井一家を第一線から退かせると共に三井財閥の持ち株を一般市場に公開したり、財団法人三井報恩会を作って各方面に寄付したり、定年制を導入して自らもそれに基づいて三井を去っている)、日銀総裁を経て近衛内閣の大蔵大臣兼商工大臣となり、国防と財政の調和、軍需生産の確保に尽力している。そして、日米開戦後は終始戦争の短期収拾論を主張して東条英機首相と対立し(池田は東条の懐柔策に対して断固これを拒絶したため、三男を戦地で失っている)、戦後は大磯にあって吉田茂首相のよきアドバイザーとなっている(とりわけ人事問題に関して、吉田は池田に対して絶大な信頼を置いていたという)。したがって、池田は財界もさることながら、その人脈は政界から海外にまではるかに及び、彼が『故人今人』で親しく取り上げている政治家だけでも、西園寺公望、高橋是清、原敬、加藤高明、宇垣一成、浜口雄幸、米内光政などそうそうたる顔ぶれである。
さて、池田は名君上杉鷹山で知られる米沢藩に生まれているが、父成章は藩校で秀才の名をほしいままにした人物で、町奉行、江戸留守居など藩の重職を歴任し、明治維新後は置賜県判事、大蔵省御用掛(現在の参事官クラス)を務め、帰郷してからは両羽銀行頭取、県会議長を務めるなどした地方名望家であった。成彬は十二歳の時に父に伴われて上京し、日本橋有馬小学校に入学した。漢学塾に通った後、十六歳の時に英学塾の進文学舎や共立学校に学び、坪内逍遥や高橋是清(後の大蔵大臣。池田によれば、その英語の講義はいい加減なもので、後に池田が財界人として頭角を顕わした時にそのことを言うと、高橋は非常に嫌な顔をしたと愉快気に回想している)からも教えを受けている。慶應義塾別科に入学したのは明治十九年(一八八六)、十九歳の時のことである。ちなみに有名な話であるが、池田は福沢に出会って間もなく「いきなりきらいになった」という。
「私が初めて慶應義塾に行ったのは明治十九年の十二月で、行ってすぐのことですが、あすこの演説館で先生が演説するというので、聞きに行ったことがあったのです。先生は、ご承知のとおり背のひじょうに高い、堂々たる体?の人ですが、――私はあの人の洋服を着てたのを見たことがありません。いつも縞の羽織を着て、紺タビをはいて、ハカマははかない。あの自分馬車にのっておったが、馬車にのるのでも始終角帯をしめていました。――それでまず演壇に立って、ちゃんと腕組みをして微笑をうかべて話しだされたものです。そのときの演説は何の話だったかよくおぼえていませんが、その中で<お前さん方は>といったか、<人間は>といったか忘れたが、要するに<君たちは巧言令色をしなければならん>といったものなのです。それが私の気にさわった…英学というものをはじめたばかりの私の頭は、コチコチの方でしたからね。…何たるバカなことをいうのかと、もうシンからきらいになって、それ以後二度とふたたび演説館に行ったことがなかったのです。無論福沢先生の家になんか行かない。」(池田成彬『故人今人』)
もちろん、福沢の巧言令色論の真意は、巧言令色は仁の要素が少なく、仁に近い剛毅木訥を理想として、寡黙が徳の一つとされ、当時の学生達も乱暴粗放極まりなかった時代にあって、国際社会の一員として対等の付き合いをしていくべき日本の「社交性」を考えていたことにあった。つまり、やがて国家をリードすべき人材たる学生達が乱暴粗放、非社交的で礼儀をわきまえていないようでは、日本のためにならないということである。八十三歳にして当時を回顧した池田は「これではいけない、ということを先生はいいたかったのでしょう」と、福沢を嫌ったのは自分の力が足りないせいだったと反省している。
「ところがそれくらいのことを平凡にいったのでは、若い人間は<さようでございますか>といって服膺(ふくよう)しないから、<巧言令色をしなければならん>と、こういったのですね。あとでわかったのですが、先生はなかなか強いことをいったものです。」(池田成彬『故人今人』)
やがて、明治二十三年(一八九〇)に慶應義塾大学が創設されると、池田は理財科(後の経済学部)へ進学し、同年八月に理財科の代表として米国ハーバード大学に留学している。そして、五年間の留学生活を終え、明治二十八年(一八九五)に二十八歳でハーバード大学を卒業して帰国すると、時の慶應義塾塾長小幡篤次郎の推薦によって、福沢の主宰する時事新報に論説委員として入社した。池田によれば「入るといきなり論説委員になれと言われた。福沢先生も乱暴なもので…」「時事新報に入ってから初めて福沢先生に直接接したが、感心したことも沢山あるが、また感心しないことも傍におってかえってわかった気もする」と当時を回顧しており、他に石河幹明、北側礼弼が論説委員を務めていたという。論説委員が書いたものでも徹底的に朱筆を入れる福沢であり、池田も論説の材料に相当苦しんだようであるが、月給が二十円であることを知ると、待遇問題で福沢に直談判し、わずか三週間でここを辞めてしまった。池田は月給五十円で生計を立てて行こうと考えていたので、これではとても生活していけないと思ったからである。こうした不平に対して、福沢は十何等かに分かれて俸給高を記した「俸給表」(一等記者六百円、二等記者五百円、三等記者四百円…とあり、一等は福沢のみが該当し、二等も三等も四等も五等も該当する者は誰もいないと皆でうわさし合ったという)を公開したが、池田は「要するに福沢先生は、政治性のあった人だが、一面非常識だった。不平の声があったので、あんなものを出したのだろうが、あんなことを出したからといって、それを本気に受けて辛抱するものがあると思うのは浅はかで、やっぱり学者の迂闊な点だったろうと思いますね」と冷ややかに受けとめていたのであった。
かくして池田は、小幡塾長の紹介状をもらって三井銀行に入社した。面接したのは塾の先輩波多野承五郎であり、当時の三井銀行は中上川彦次郎(福沢の甥)が改革断行中で、そのための人材を福沢門下生の中からスカウトし続けている時期であったのである。朝吹英二(中上川の妹と結婚)、藤山雷太(中上川の妻の妹と結婚、後に大日本精糖社長として財界巨頭の一人となる)、津田興二(新聞記者)、村上定(熊本新聞主筆を経て山陽鉄道社員)、野口寅次郎(新聞記者)、武藤山治(後の鐘紡社長)、和田豊治(後の富士紡社長)、小林一三(後の東宝会長、商工大臣)、西松喬(山陽鉄道社員)、波多野承五郎(報知新聞記者、フランス公使館付書記官を経て朝野新聞社長)、鈴木梅四郎(時事新報記者を経て横浜貿易商組合顧問兼横浜貿易新聞社長)、柳荘太郎(時事新報記者)、小野友次郎、小出収(信濃毎日新聞主筆)らがすでに入社しており、池田の同期には矢田績(神戸電灯重役)、藤原銀次郎(後の王子製紙専務、日本の製紙王と呼ばれる)らがいた。以後、四十余年間にわたる銀行生活が始まるのであり、私生活でも中上川の長女艶と結婚している(したがって福沢の一族ともなるわけである。大体、福沢桃介といい、外から一族に入った者は福沢に対して少々辛口の評価をすることが多い)。
さて、池田は大阪支店を経て、入社後わずか二年にして足利支店長に抜擢され、さらに明治三十一年(一八九八)には銀行制度視察のため、欧米に派遣されている。帰国後、営業部次長・営業部長を経て、明治四十二年(一九〇九)に常務に就任するが、その後、昭和八年(一九三三)に三井合名会社筆頭理事(その前任者はマサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ團琢磨であったが、血盟団事件によって射殺されたため、三井物産の創始者にして中上川とはライバル関係にあった益田孝が、「この難局を救えるものは池田成彬ただ一人です」と断言して後継が決まったという)に転じるまでの二十五年間、三井銀行を実質的に主宰し、日本金融界の大立者としての地位を確立するのである。
その後、政界との交流も深め、首相になるチャンスも幾度かあった池田であるが、彼の身辺を知る者にその高潔な人格を称える人が多いことは注目に値しよう。その接客は誰に対しても平等かつ丁寧で、約束や時間は厳守し、公私の区別にやかましく、決して嘘を言わないので、他の大臣達には夜討ち朝駆けをかける新聞記者達も池田にだけは非常に敬意を表し、自宅に押しかけたりすることもなかったという。「成彬(せいひん)イコール清貧」という批評すら生まれているほどであったのである。
参考文献:『福沢山脈 上』(小島直記、河出文庫)、『三井家の人びと 現代に生きる平家物語』(小島直記、光文社)、『財界人思想全集2 経営哲学・経営理念 昭和編』(中川敬一郎・由井常彦編集・解説、ダイヤモンド社)、『財界人思想全集9 財界人の人物観』(草柳大蔵編集・解説、ダイヤモンド社)
copyright(C) keiocampus newspaper 2004-2006;