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2004年07月10日号

塾統~慶應義塾の伝統⑭ 朝鮮独立運動志士 金玉均

福沢が感化した朝鮮開化派
日本亡命ならず暗殺
 

 福沢は歯に衣せぬ一面を持っていたが、恐らく福沢の言辞で最も誤解を招いたと思われるのが「脱亜入欧」の一語であろう。この一語のために、アジアを植民地支配した日本帝国主義の先鞭を切ったかのようなイメージが与えられてしまっているが、福沢の本意はそこにはない。朝鮮独立運動の志士金玉均への援助、尽力を通じて、そのことは浮かび上がってこよう。金玉均は慶應義塾で学んだ者ではないが、福沢から直接的影響、感化を受け、多くの留学生を慶應義塾に送り込んだ人物である。

 福沢は「父の生涯、四十五年の其間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。…私の為めに門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)と述べているが、こうした中国伝来の儒教的封建主義の影響から朝鮮を切り離し、これをいち早く近代化に成功した日本の支援の下に完全な独立国として、西欧列国の侵略の脅威から免れさせることが、ひいては日本の安全にも役立つと確信し、積極的に朝鮮独立のために尽力したのであった。

 そのため、福沢は朝鮮から慶應義塾へ留学生を迎え入れ、これを教育して送り返すことを早くから考えていたのであり、明治十四年(一八八一)にはロンドン在住の門下生小泉信吉及び日原昌造に次のように書き送っている。

 「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察の為渡来、其中(そのうち)壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居(やりおり)候。誠に二十余年前自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るゝの発端、実に奇偶(遇)と可申(もうすべく)、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄(はなし)を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合(つきあい)開らける様に致事に御座候」(『福沢諭吉全集』第十七巻)

 この二名とは紳士遊覧団の随員として来日した兪吉濬(ゆきつしゅん)、柳定秀のことであり、紳士遊覧団とは明治九年(一八七六)に江華条約で開国させられた朝鮮政府が、明治九年及び十三年(一八八〇)の二回にわたって総勢六十二名の視察団を日本に派遣したものである。

福沢邸を訪ね教え受ける

 さらに明治十五年(一八八二)、「壬午事変(第一次京城事変)」(大院君を中心とする保守派のクーデター)で日本公使舘が襲撃されると、謝罪のための朝鮮修信使が派遣されたが、その国使として立てられたのが二十一歳の朴永孝(前国王の王女の婿で、東洋と西洋とを問わず、学問の根本は「実用」にあるとの思想に立ち、開化派の指導者の一人であった)であり、その顧問として同行したのが三十一歳の金玉均であった。実は金玉均はこの一年前にも来日して福沢邸を訪ね、いろいろと教えを受けており、先の二名を選抜して慶應義塾に入学させたのも彼であった。福沢も明治十五年九月に時事新報でその人となりを次のように紹介している。

 「つとに開国の説をとなへて後学を誘進し、文明の道につかしむるをもつておのが任となし、かつて一日もこれを忘れたることなし」

 「悪をにくむことはなはだしく、たとへば古史を読みても、邪曲の小人反覆常なきの条にいたれば必ず憤怒してやまずといふほどの性質なれば、今人に交るもまたかくのごとく、毫(ごう)も人の不正をゆるさず」

 修信使一行は鄭重に迎えられ、金玉均も「時に日本政府まさに朝鮮に注目し、視(み)て独立国となし、公使を待つことすこぶる慇懃(いんぎん)なり。予その実心実事を察し、よって朴君と議し、つひに意を傾けて日本に依頼す」(『甲申日記』)と書いている。井上馨外務卿は一行のために横浜正金銀行から十七万円を貸与させ、これを日本へ支払うべき賠償の一部と修信使一行の帰国の費用に使い、残余は朝鮮の教育事業に当てるとした。ちなみにこの時、井上は福沢に借受名義人になってもらいたいとの申し入れを行なっているが、「この機会に一四年政変以来の感情を緩和するため、かかる申出をなしたのかもしれぬ。ところが先生は、そんな小刀細工はよしたほうがよかろう、といってこれを謝絶せられた」(石河幹明『福沢諭吉伝』)という。

 かくして朴永孝と金玉均は福沢邸を訪ねているが、これは日本から借りた金の残余で教育事業をやることに対して、アドバイスを求めたためであった。これに対して、福沢は第一に朝鮮から多くの青年を日本に留学させること、第二に京城(ソウル)で新聞を発行することを勧めている。留学生は後に数十名が来て、慶應義塾と陸軍士官学校に入学し、新聞については福沢門下生の牛場卓蔵、高橋正信を推薦して、印刷機械や漢字活字なども準備し、職工監督も雇い入れている。後に外衙門協弁(外務省次官)の金允植(きんいんしょく、やはり福沢を訪問した人物である)の助力を得て、福沢家の家庭教師として住み込んでいた福沢の懐刀井上角五郎によって、明治十六年(一八八三)に朝鮮における最初の新聞「漢城旬報」が創刊されるのである。

 さて、壬午事変後、清と組んだ事大党が支配を強化したため、金玉均、朴永孝ら日本の明治維新のような改革を行なおうとする一派によって独立党が組織され、独立党は日本と組んで明治十七年(一八八四)に「甲申事変(第二次京城事変)」起こしている(慶應義塾で演劇論を教えていた小山内薫の作品に、この場面を描いた「金玉均」がある)。井上角五郎は福沢の関与に関して、「金朴の一挙に就ては先生は啻(ただ)に其筋書の作者たるに止まらず、自ら進んで役者を選み役者を教へ又道具立其他万端を差図(さしず)せられた事実がある」(石河幹明『福沢諭吉伝』)と述べている。このクーデターは失敗し、金玉均、朴永孝ら六名の者は日本に亡命しようとしたが、日本公使は日本政府の責任になることを恐れて(当時、政府が最も恐れていたことは朝鮮問題を契機として日清間に戦争が勃発することであった)、これを拒否したため、福沢の意を受けていた井上角五郎は彼らを密かに日本に亡命させ、数ヵ月間福沢邸にかくまっている。実に福沢の「脱亜論」(明治十八年〔一八八五〕三月十六日「時事新報」)はこうした日清間の緊張が高まり、朝鮮の改革が絶望になった時に発表されたのであった。

日本退去命令に福沢も抗議

 やがて、明治十九年(一八八六)に内務大臣山県有朋が金玉均に対して日本退去命令を出した。結局、金は小笠原諸島に追放され、後に北海道に移された後、最終的には謀略によって中国大陸におびき寄せられて、上海で暗殺されるのであるが、福沢は「時事新報」に「金玉均氏」と題する記事を書き、政治亡命客の保護は文明国日本の義務であるとして、これに抗議している。

 「朝鮮政府は、国際上各国たがひに国事犯罪人を持つの恒例を知らず。金氏が朝鮮現執権者の毒手を逃れて日本に来(きた)り自由の空気を呼吸しをるを見て、縁もなき日本政府に対して不快の感覚を起すの事実あるは、かねてわが輩の聞知する所にして相違なきがごとし。しかしながら金氏が日本に滞在すれば、何故に日本の治安を妨害し、また何故に外交上の平和を障害するのおそれあるか、わが輩のいまだかつて聞知せざる所…。」(「時事新報」社説)

 甲申事変の失敗から十年後、朝鮮では明治二十七年(一八九四)七月から、漸進的な改良的開化派と急進的な変法的開化派の連合政権によって、「甲午改革」が始まった。その主体勢力となったのは金弘集(第二次修信使として来日)、金允植(井上角五郎の「漢城旬報」発刊のために尽力)、魚允中(紳士遊覧団に参加した時から福沢と深い親交を持っていた)、兪吉濬(慶應義塾留学生第一号)らを中心とした改良的開化派であり、「甲申政変」後に日本に亡命していた変法的開化派の朴永孝や、アメリカに亡命していた徐光範らも参加し、改良的改革か変法的改革かの対立が生じている。しかし、同年三月に上海で暗殺された金玉均の姿はそこにはなかったのである。この「甲午改革」のためには、各分野で高等教育を受けた実務的な人材を必要とし、そのために福沢と「留学生委託契約」を結んで、明治二十八年(一八九五)には一挙に百十四名の朝鮮政府委託留学生が慶應義塾に派遣されているのである。

 かくして、この「甲午改革」によって、従来の儒教一辺倒の教育は廃止され、「実用」の人材を養成するための近代教育を制度的に確立したのであるが、こうした近代教育が定着し始めたのは日露戦争後、日本の侵略が本格化した一九〇〇年代後半期であった。そして、この時期にはそれを見守る福沢の姿もまたなかったのである。

参考文献:『福沢諭吉 国民国家論の創始者』(飯田鼎、中公新書)、『朝鮮儒教の二千年』(姜在彦、朝日選書)、『無冠の男 上下』(小島直記、新潮文庫)、『編年体 大正文学全集第十五巻』(鈴木貞美編、ゆまに書房)

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