2008年11月15日号
塾長インタビュー
慶應義塾長
安西 祐一郎 氏
世界に貢献する学塾に

創立百五十年を迎え、慶應義塾の新たな挑戦が始まった。それは、「国際社会における未来への先導」。国内外を問わずグローバル化が進行する中、教育・研究の最高学問機関として大学に期待される役割も変わりつつある。今回、百五十年という大きな節目を迎えるにあたり、安西塾長が見つめられる義塾の今後の展望、大学に求められる役割、塾生への期待やメッセージを語ってもらった。
――創立百五十年を迎えた義塾の今後の展望は。
慶應義塾の百五十年は、日本の近代化の歴史と重なる。この歴史は日本が封建制から脱皮し、アジアの先頭を切って近代市民社会を創ってきたプロセスであり、それを先導してきたのが慶應義塾の創立者福澤諭吉先生とその門下生だった。百五十年にわたって築いてきた誇りある伝統と実績を踏まえ慶應義塾が目指す今後の方向、それはオープン&グローバルだ。
その意味は、慶應義塾が教育だけでなく研究、医療等についても同様に世界を視野に入れ世界水準の学塾となる一方、いろいろな地域の人たちやいろいろな文化と背景を持った人たちに対して開かれた学塾として進んでいきたいということだ。さまざまな人が集い、グローバルな視野を持って一緒になって学び切磋琢磨することで、これからの時代の先導者となることを目指す。
グローバル化とは、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を越えて自在に行き来し、さらに、それらが直ちに互いに影響しあうことである。そこでは、国際金融市場の混乱、地球温暖化など、人間社会の問題が地球規模で起きる。慶應義塾は、そういう時代を先導していく人間を生み出していかなければならない。そのためには、宗教、民族、国家、言語、文化圏等々が異なる人と対等に話ができ、議論ができる必要がある。
そこで不可欠なのが、慶應義塾創立百五十年記念事業の基本コンセプトとして掲げる“独立と協生”、つまり“独立して生きていく力”と“協力して生きていく力”だ。言い換えれば慶應義塾に脈々と流れる“独立自尊”の精神ということになる。“独立自尊”の精神は、むしろこれからの時代に要求されている。だからこそ、慶應義塾は先導者の育成を通じてこれからの時代を担っていく力を持っている。
――安西塾長が目指す慶應義塾の教育とは。
私は、人は誰でも多くの能力を秘めてこの世に生まれてくると考えている。その能力を自分で発見し、磨くことができれば、自分の得意なこと、好きなことで他者に貢献することができる。それは本当に楽しいし、気持ちのいい人生だと思う。個人の能力を活かして、公、国が成り立つようにしようと叫び続けてきたのが慶應義塾だ。
それに対して日本では、いまだに上意下達、上から指示して下は従うという考えが強い。こういった考えが基にある官立の大学と慶應義塾は根本から違う。
慶應義塾のあり方こそ、これからの時代のあり方だ。塾生は、そうした誇るべき気概を持つ学塾で学んでいることを誇りにして、慶應義塾という場を最大限有効に活用してほしい。そして、自分の可能性、能力を見つけ、磨いていく体験をたくさん積んでほしい。慶應義塾には、それだけの自由な気風がある。
――大学のグローバル化が進む中、慶應義塾が世界に強みとしていくものとは。
アジアの国々で若い人たちに会うと慶應に行きたいと言うことが少なくない。理由は、自由で明るくて、自分たちの国にないものがあるからと言う。自分たちも何年か経つと、慶應のような雰囲気になっていくのではないかという夢がある。
戦後しばらくは、日本人にとってアメリカが一種の憧れだった。明るさがあった。今、日本を見ると慶應が明るく見える。明るくて夢があって、そこで勉強してみたいと思うのが、慶應の大きな特徴だ。
もう一つの特徴は、慶應の留学生を国籍別に見ると、一位が中国、二位が韓国、三位が台湾で、四位にアメリカ、五位にフランスが入っている。これは他の日本の主要大学にはない特徴だ。日本からアメリカにはよく留学するが、アメリカから日本へはなかなか来ない。そういう中で、慶應はアメリカからの留学生の数が多くなっている。もちろんアジアを重視しているが、欧米も重視している。こうした特徴を、慶應義塾は強みとしていきたい。
――これから求められる大学の役割について。
世界には、環境、資源の問題、食の安全などの健康・生活の問題、さらには貧困、戦争による地域間格差、情報格差、教育格差など、グローバルな問題が山積している。こうした課題への取組みは、国と国の関係ではどうしても利害が衝突してしまう。一方、大学は社会の利害から一歩距離を置くことで、学術面あるいは教育面からグローバルな課題に対する提言や人材の育成を通じて世界の安定と繁栄のために貢献できる。国内の課題についても同じことが言える。
それがNPOとしての大学の役割だ。大学同士の連携による国内外の基本的課題への挑戦こそ、大学の二十一世紀における大きな使命だと思う。
――最後に塾生へのメッセージをお願いします。
日本、アジアの近代化を先導してきた百五十年の歴史を持つ学塾の塾生であることに、誇りと自信を持ってもらいたい。そして、これからのグローバルでオープンな時代に、独立自尊の精神を持つ慶應義塾の塾生として世界に目を開き、これからの人生を夢と志を持って歩んでほしい。勇気を持ってチャレンジしてほしい。塾生が皆そうなったら、すごいパワーになる。ただ、自分はそうやっていると思っても、世界トップレベルの大学の学生はそれ以上にやっている。本当に素晴らしい学生が世界にはたくさんいることを忘れないでほしい。彼らは立ち居振る舞い、礼儀作法、話し方、知識、言葉の表現、コミュニケーションの仕方などを身につけている。
慶應の塾生には、国内の他大学の学生のみでなく国外の大学の本当にリーダーシップをとる学生たちとの対話を通じて尊敬できる仲間に巡り会ってもらいたい。これからの時代のリーダーには、そうした体験が絶対に必要だ。
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西村太良常任理事インタビュー
常任理事
西村 太良 氏

日本のモデル大学に
“スマート”な品性を
慶應義塾は創立以来、社会に多くの人材を輩出してきた。百五十年の伝統と歴史の蓄積を誇る義塾は、今後何を軸として人材を育て、また、研究を進めていくのだろうか。今回、義塾の教育分野を担当する西村太良常任理事に、義塾が目指す教育・研究、人材育成、塾生への期待やメッセージなどについて話を聞いた。
――創立百五十年を迎えて。
近年、大学や日本を取り巻く状況が急速に変わりつつあり、グローバルな競争的状況の中で先行きが不透明になっている。こうやれば上手くいくという状態ではなくなっている。これは、百五十年前の日本の状況と似ていて、一つの大きな転機だと思う。
その中で我々がやるべきことは、福澤先生が百五十年前に持っていた問題意識と、それに対してどうやって答えを発見してきたかという原点に立ち戻り、慶應がどうあるべきかを見つめなおすことだ。
今、社会でも国際化が叫ばれているが、そもそも慶應はその建学の理念において日本の中では市民社会の考えに基づいた西欧型の大学といえる。世界的見地から見れば、慶應のポジションがスタンダードになるべきだろう。その意味で、慶應は日本の大学の今後のあり方のモデルになり得る。実際に国立大学は、慶應における卒業生との関係、教員と学生の関係などを、一つの目標として考えている。
また、学生のレベルが相対的に高くなっている状況の中で、それに合った教育・研究環境を大学として提供することも必要だ。それが結果として、大学全体としての価値、教育・研究内容を押し上げていくことにつながっていくと思う。学力トップに立つために他に負けないように競争するというよりは、自分たちが本来もつ力、個性を最大限伸ばすための環境を造っていくことのほうが重要だ。そのための前提として、百五十年記念事業は慶應義塾の今後の五十年、百年の基盤を築く目的を持っている。
――義塾が目指す教育・研究とは。
以前は、日本における大学の位置づけは東大など旧帝大を頂点としたピラミッド型だったが、今ではそれが横並びになってきている。今の高校生、中学生は、自分はこれをやりたいからこの大学を選ぶ、という個人の選択の幅が拡がっている。慶應もそうした個人の選択に対して最大限に効果を生めるように、期待に応えていきたい。
そのために、一人ひとりの学生がどんな夢を持ち、どれだけ実現できたのか、こんなことがやりたかった、という生の声を聞いて必要に応じて見直していくことが肝要だ。これからは大学としての自覚の深さによって、大学の価値が決まっていく。
その上で慶應が目指すのは、学生たちの、また社会の新しいニーズにも対応できる組織を作っていくこと。今回、新しく二つの大学院を新設したのも、社会のニーズに応えるためで、従来の研究では対応できなかった複合領域で人材を育成していくことを目的とするが、それと同時に、これまでの百五十年で蓄積してきた良い伝統や文化は残していく、こうした多様性と寛容性が必要だと思う。
一方、世界的な競争を考えると、内側に閉じこもってばかりではいけない。特に、教育・研究内容は、海外の大学と比較したときに世界レベルかどうかなど、外の状況も認識すべきだ。しかし、私は慶應があらゆる分野で世界一になる必要はないと思う。慶應として特色ある教育研究がどれほど実現できるかが重要だ。
――人材育成について。
企業の人事部によると、慶應の卒業生はコミュニケーション能力、チームワーク力の点で評価が高い。しかし、それが実際どういった教育システムでできるのかと言われると、自覚的に示せるものではない。私が思うには、これまで教員を含めた慶應の人たちが大学の中や社会で人間関係を作っていて、その環境の中で学生が四年間過ごすこと自体が目に見えない効果を生んでいるのではないか。
特に、慶應はサークル活動が盛んな大学だ。その中で教員や上級生、下級生との人間関係が自然に身に付いていくのだろう。波長の合う人を見つけ、深く付き合う、これは非常に大切なことだと思う。
――塾生への期待やメッセージを。
スマートな品性を持ってほしい。それは、お金があるとか頭が良いということではなく、人間としての生き方や質のことだ。しかし、社会ではそうした考え方の基盤や倫理観が失われつつある。自分の生き方が通用しなかったり、逆境に立たされることもあるだろう。そうした中でも、あるいはそうした中であってこそ、それぞれが学んだことを生かして、卑怯なことをしない自尊心、自分の生き方に対する美意識を自覚して生きてほしいと思う。
また、他者とのポジショニング、つまり他人との関係と距離を大切にしてほしい。このことは、自分自身の独立性を維持し、他人を尊重するために不可欠な要素で、百五十年のコンセプトにある“独立と協生”にもそのあり方が表れている。自分の考えを持ち、正しく主張できることは大事だが、それを押し付けるのではなく、相手の話も聞くこと。自分自身を離れて客観的に分析し、他の人から見てどうなのかと常に意識することが大切だ。独りよがりでない自己主張、それが慶應らしさだ。
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若き先導者たちへ -次代にたくす日本の未来⑦
サントリー社長
佐治 信忠 氏
逆境も“なにくそ”
“全社会の先導者たらんことを欲するものなり”―これは福澤諭吉先生が語った慶應義塾のあるべき姿である。本企画では、社会の先導者たちに、未来のリーダーとして学生が持つべき姿勢を学ぶ。第七回目は、サントリー社長の佐治信忠氏に語ってもらった。
――大学時代に学んだことや思い出は。
私が塾生の頃は、ちょうど学園紛争の最中だった。一度、期末試験が実施できなくて三月にずれ込んだことは、未だに思い出として残っている。
サークル活動では、広告学研究会に所属していた。当時からサントリーが宣伝広告でも有名であったから、その影響かもしれない。広告学研究会では夏になると、葉山で海の家、キャンプ・ストアーを開いた。四十日間、掘っ立て小屋に泊まり込んで、みんなと苦労してお店を経営したのは楽しい思い出だ。実際、広告の勉強は殆どしなかったが、そこで築き上げた交友関係は今でも大きな財産になっている。
勉強そのものが、そのままビジネスに役立つということは少なかったが、私にとって山本ゼミで世界経済を学んだことは、その後、自分自身が会社経営において、国際的な視点を持つ上で非常に良かったと実感している。そして、それ以上に、義塾で過ごした四年間の生活そのものが、その後の人生に良い影響を与えていることは間違いない。塾、又、塾社中が持っている開放感、おおらかな雰囲気、そして、独特な連帯感が他の学校には無い塾の良さ、魅力ではないか。
――最先端の研究開発や社会貢献活動を可能にする企業文化とは。
サントリーでは、利益三分主義といって、利益の三分の一を社会に還元していくという企業理念が脈々と受け継がれている。だから、サントリーホールやサントリー美術館など、文化的な面にも力を入れているし、キッズドリームプロジェクトといって、次世代を担う子どもたちが、一流のアスリートやアーティスト、本物のアートや音楽と触れ合うことによって、彼らの夢を育んでいく活動も行っている。このような社風が今日まで引き継がれてきたのも、ずっとオーナーが社長を務めているからとも言える。そういう環境で育ったので、私も子供の頃から、社会貢献活動は経営者になったときの使命の一つだと考えていた。
社員もこうした社風に触れていく中で、自然と文化活動や社会貢献活動に対する考え方が身につき、社会とつながりを持ってやっていくことに誇りを持つようになる。ただトップが言うだけではダメで、社員も体感しながら、そのことに意義を感じていくことが大切だ。
あとは、絶えず、創業者の時代からサントリーに脈々と流れるDNA・「やってみなはれ」の精神を説き続けることだ。やらざるの罪を問い、我が社が持っている常に新しいことに挑戦していく精神を、絶えず社員に啓蒙していく。そうしたことが、最先端の研究開発にも繋がっていくと信じている。やはり、上に立つ者が自ら旗を振らないといけない。
――佐治さんが経営者として大切にしていることは。
それは夢を持つということだ。強烈に夢の実現を念じて実行していく力。よく「あの人は先見の明を持っている」と言ったりする。しかし実際、五年後、十年後のことは神様ではないのだから分からないと私は思う。しかし、夢を持つことはできる。そして、その夢を実現していくには、経験上、五年から十年の時間がかかる。だから、夢を持ち、それを実現出来た人だけが、後から、「先見の明を持っていた」と言われるのだと思う。
――先導者の条件とは。
まずは夢を持ち、そして、その夢を実現できる体力と頭脳のエネルギーを持っていること。世の中、社会を、会社を変革しよう、変えてやろうという活力が必要。絶えず変革をしようというエネルギーを持ち続けることができて、初めて先導者になれる。
――佐治さんはそのような活力をどこで養っていきましたか。
一つは、アメリカに留学して懸命に勉強し、同時に、世界をリードしていくアメリカというとてつもない大きな国の息吹に触れることができたことが大きかった。こういうことは、体験してみないと分からない。
それから三十代の頃、アメリカで仕事をし、サントリーをグローバルな企業にしようという夢を強く念じながら、その実現に没頭した体験は、私に経営者としての活力を身につけさせたと思う。
――夢を追う過程で逆境もあると思いますが。
それは、「なにくそ」と思うこと。これがダメなら、諦めることなく、次にあれをやってみようという姿勢。いつも何か変革していく姿勢を、経営者は持ち続けることが必要だ。これで安泰と思ったらダメだ。人間は本来、保守的な性質を持っている。だから、状況が良いときでも、常に変革しようという気持ちを持っていないと、何かあったときに動けなくなる。絶えず、社員も挑戦や変革をしていく気持ちを持っていれば、苦境でもすぐに動けるし、会社は発展していく。
――最後に塾生へのメッセージを。
学生のときは時間があるから、自分で垣根を設けず、常に新しいことに挑戦してほしい。若いころには、何でもいいから一生懸命やることが大切だ。ただ何となく過ごすのではなく、熱中できることを見つけてほしい。
あとは、もっと本を読んでもらいたい。乱読で良いと思う。私は、今でも乱読派だが、福澤先生の「学問のすすめ」は何度も読んだ。現在に通じる様々な提言に満ちていて、改めて新たな発見をすることが出来る。
これまで日本は順調な経済発展を遂げてきたが、二十一世紀は新しい国作りが必要になってくる時代。次世代を担う義塾の卒業生が、これからの日本の未来を先導していくという気概を持って、今を大切に過ごして欲しい。
【さじ・のぶただ】1945年兵庫県生まれ。68年本学経済学部卒業後、渡米。71年カリフォルニア大学ロサンゼルス校経営大学院卒業。ソニー商事を経て、74年サントリー入社。79年サントリーインターナショナル社長、82年サントリー取締役。常務、専務、副社長を経て、2001年3月社長就任。02年3月から会長兼務。現在、日本洋酒酒造組合理事長、公共広告機構理事長など、多方面に役職を務める。
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特集 時代を先導した義塾の豪傑たち
先生と門下生から福澤精神を学ぼう
幕末の激動期に創立された慶應義塾。明治維新を経て、新しい時代を迎えた日本において、その随所に福澤門下生の姿があった。その背景には、当然、義塾を先導し、多くの人物に影響を与えてきた福澤先生の存在が大きい。二十一世紀に入り、再び時代の変革期を迎えて先導者が必要とされている今こそ、福澤精神に立ち返るべきではないだろうか。今回は、先生とその門下生七人を取り上げ、生き様や逸話から福澤精神を学んでいきたいと思う。
福澤 諭吉

「師情」にあふれた根っからの教育者
福澤諭吉(一八三五~一九〇一)は実に「師情」を有する人物であった。例えば、後に第一期留学生に選ばれ、福田徳三と共に理財科の支柱となった堀江帰一のような人材が出てくれば、福澤は「堀江のような奴が出るので、己(お)れは教育をやめられない」などと人に語っており(高橋誠一郎『経済学 わが師 わが友』)、福澤の本質は「教育」にあったことが端的に窺えよう。
そもそも福澤が最初に頭角を現わした大阪の適塾では、百人余りの塾生が入れ代わり立ち代わり、押し合いへし合いしながら、たった一部しかない貴重な辞書を引いて勉強し、「辞書を左右に置いて、原本で書物を読むことができるならば、天下の愉快だろう」と言い合っていたというが(長与専斎『松香私志』)、後に福澤がアメリカに渡ってウェブスターの辞書を購入した際も、「其の悦びは天地無上の宝を得たようなものだ」と述べている。では当時、一体何のために苦学をしていたかというと、「ちょいと説明はない」という。言うなれば、「楽しいから学問をする」といったあんばいである。逆に目的がなかったことが幸いして、江戸の書生よりよく勉強ができたのだろうと言い、江戸の書生が大阪に来て学ぶということはあったが、大阪からわざわざ江戸に学びに行くということはなく、行けばすなわち「教える」という方であったという(『福翁自伝』)。
実際、福澤は江戸に上がってからも洋学者仲間の中では抜きん出た存在であった。いつも懐は本でいっぱいにふくらんでおり、いつも本のことばかり心にかけて、幕府の奥医師を務める桂川家から洋書を借りる際も、他の人が写すのに一か月も二か月もかかる所を、たいてい四、五日か六、七日ぐらいで写して返していたという。桂川家の娘みねも当時の福澤について、次のように述べている。
「いったい何をしてもお上手でおもしろく、また物知りでいろいろお話をしていただきましたが、時間がくるとぴたりとよしてしまって、いくらねだってもききいれて下さいません。その時はいい方だけれど強情の方だと思いました。子どもに対してもきげんをとる風がなく、教えてゆくという気骨がおありになりましたので、子ども心に先生のような気がしていました。どんなことをうかがっても面倒がらずによく教えて下さいました。」(「福沢諭吉さんのお背中」)
やがて、福澤は慶應義塾を興し、多くの人材を直接育てながら、おびただしい著訳書を通して日本社会を啓蒙していくのだが、とりわけ明治新政府が『西洋事情』(偽版を含めれば二十万部から二十五万部は読まれたとされ、後藤象二郎が徳川慶喜に大政奉還を進言した時も、慶喜が既に『西洋事情』を読んでいたことを知って驚いており、若手の有望な公家として嘱目されていた西園寺公望も十七、八歳の頃、この書を手にして、そこに書かれているような天地に生れたならば、さぞやおもしろかろうと感じたという)に書かれているよりも一段も二段も進んだ政策を断行するに及んで、この勢いに乗じてさらに大いに西洋文明の空気を吹き込み、全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明国を開き、東に日本、西に英国と相対して後れを取らぬようにと、ここに「第二の誓願」を起こしたという。そこで、身体の健康を頼みにして、一方では塾務に務めて大勢の学生を教育し、あるいは演説などで所思を伝え、また一方では『西洋事情』以後の著訳書を書き続けていったというのである。
このような直接・間接の方法・手段をもって、効果的・永続的に教育を進めていったことは、実に「師情」あふれる福澤の「師才」のなせる業と言ってもよいであろう。
小幡篤次郎

先生の学識深き女房役
長く福澤の女房役を務めたことで知られる小幡篤次郎(一八四二~一九〇五)は、学識の深さと広さにおいて師である福澤を凌ぐのではないかと見られ、塾内では福澤に次ぐ長者として尊崇の的になっていた人物である。高橋誠一郎によれば、福澤は至って口達者で、饒舌多弁、談論風発の趣があったが、篤次郎は頗る口の重い方で、その言は訥々然として、思うことを十分に説き尽くし得ない憾みが多かったようであるが、学生も学校当局も篤次郎に対しては常に敬意を表わし、福澤も何かにつけてその意見を求めていたという。例えば、福澤が晩年に好んで揮毫した語に「独立自尊是修身」というものがあるが、最初にこの語に想到した時、「独立自尊唯是修身」と「独立自尊是修身」の二様の書を小幡家に持参させ、どちらがいいかを尋ね、そうして篤次郎の意見に基づいて「唯」の一字を除いたというのである。
さて、福澤は元治元年(一八六四)にそれまで諸藩の浪士達の巣窟となり、梁山泊の感すらあった築地鉄砲洲の英学塾の風儀を正し、学塾としての面目を整えるために故郷中津に二カ月間帰省し、若い俊秀六人を伴って帰京しているが、この中に小幡篤次郎・仁三郎(後に甚三郎と改名。温厚篤実な篤次郎を「徳の人」であるとすれば、才気煥発な弟である仁三郎は「智の人」であり、ことに英語の読解にかけては彼の右に出る者はいなかったとされる)兄弟や浜野定四郎(ていしろう)らがいた。福澤は将来、塾の中核となる人物の養成を考えて、藩士の次男、三男でなるべく家事に係累の無い者を目につけてはしきりに説得していったのであるが、この三人は後にいずれも塾長を務めており、福澤の人を見る目の確かさが窺えよう。
篤次郎は元々藩学進修舘において教頭のような立場にあったが、塾が慶応四年(一八六八)に芝新銭座に移って「慶應義塾」を名乗るまでに、すでに塾頭を務める存在となっており、福澤に代わって毎週月曜日・木曜日にウェーランドの経済書を講義している。そして、明治三年(一八七〇)には友人渡部一郎の翻刻した『経済説略』と題する英国出版の書を翻訳し、さらにマンデヴィルの第四リーダーの中から通貨、外国貿易、国内商業の三カ条を訳してこれを補い、『生産道案内』と題して出版した。次いで、明治四年(一八七一)からウェーランドの経済学を『英氏経済論』と題し、各編を三巻に分冊して上梓し、明治十年(一八七七)に至って完成しているが、これらは日本における欧米の自由主義経済学の輸入という点からしても注目されよう。何となればここに出て来る篤次郎の批評から、少なくとも明治十年の頃にはすでに慶應義塾の学徒の間では楽天的自由主義経済学説に対して疑問を抱く者が少なくなかったという事実を知ることが出来るからであり、ここに後進国たる日本の国情に立脚した国民主義的経済学説が提唱されるに到った必然性が窺えるのである。篤次郎はこの他にも、初歩の教科書として盛んに使われた自然現象の解説書『天変地異』(台湾の新附の民のために漢訳されたこともある)や英語のイディオムやフレーズを集めた日本最初の辞書『英文熟語集』(仁三郎と共著)を著わしている。
ちなみに慶應義塾にあっては福澤だけを「先生」と呼び、福澤先生以外には先生無きがごとくであったが、福澤の没後、副社頭から社頭に推薦された篤次郎のことを浜野は「第二の先生」と呼んだという(先述の高橋は浜野が亡くなった時、浜野を「第三の先生」と呼んでいる)。
小泉 信吉

先生に惜しまれた逸材
小泉信吉(のぶきち、一八四九~一八九四)は俊秀さのみならず、高潔な人柄から敬愛され、明治二十二年(一八八九)、四十歳の時には大学部設置の準備のために塾長として迎えられた人物である。若干四十五歳で亡くなった時には福澤自ら弔文をしたため、「福澤諭吉涙を払て誌す」と付記して、「其の学問を近時の洋学者にして其の心を元禄武士にする者は唯君に於(おい)て見る可きのみ。我慶應義塾の就学生前後一万に近き其の中に能く本塾の精神を代表して一般の模範たる可き人物は、君を措(おい)て他に甚だ多からず。・・・今や我党の学界に一傑を喪(うしな)う。ただに慶應義塾の不幸のみならず、天下文明の為に之を惜しむものなり」と痛哭なる絶賛をした。小泉家では毎年十二月八日の命日に、この福澤の弔文の掛け軸を掲げるのを例としたという。
あるいは明治三十三年(一九〇〇)に慶應義塾がその主義とする新道徳綱領を世に宣布すべく、「修身要領」を発表した際、その立案起草についても福澤は心労を重ね、頼むべき人が少ないと漏らしているが、この時も「斯かる評議に提議を乞うべき人物は、小幡兄弟(篤次郎・甚三郎)、日原(昌造。日原は直接慶應義塾に学んだわけではないが、小泉信吉に英学を学んだ関係から進んで福澤と師弟の間柄になっていた)、小泉(信吉)を以て第一と為す。小幡甚三郎及び小泉は今や地下の人にして致し方もない」と手紙に書いているほどである。小幡甚三郎と小泉信吉などは死してもなお頼りにしたい人材だったというのである。
さて、この小泉は和歌山藩士の子弟の中から選抜され、慶応二年(一八六六)、十七歳の時に留学生として江戸に来り、慶應義塾で洋学を学んでいるが、明治元年(一八六八)になると小幡甚三郎・松山棟庵と共に文典素読を担当し、翌年には阿部泰蔵と共に合衆国歴史会読を担当している。日本に初めてスピーチ(演説)とデベーション(討論)を伝えた『アメリカン・デベーション』という原書を福澤にもたらしたのも彼であり、この方法を日本国民に知らせてはどうかという進言を受けた福澤は数日かけて大意を訳し、『会議弁』を著わしているが、ここから「三田演説会」が生まれたことはよく知られている。
明治七年(一八七四)に中上川彦次郎と共に英国留学に出発し、二人は『英国商業史』の著者として有名なロンドン大学教授レオン・レビーの事務所に通って、法律・経済・財政・保険・倉庫・貿易などについて個人教授を受けている。そして、明治九年(一八七六)にはロンドンに井上馨がやって来て、研究に打ち込んでいたが、毎週土曜日には日本人留学生を呼んで、経済学の輪読・討論を行なっており、その時に招かれた中に入っていた小泉と中上川にたちまち注目するに至っている。井上は木戸孝允宛の手紙で「福澤書生三人」(もう一人は明治十年にロンドンへ来ていた小幡篤次郎であると思われる)を絶賛し、三条実美太政大臣宛の手紙では「太政官に採用して下さい」と伝え、親友伊藤博文にその斡旋を頼むという風で、並々ならぬ信用ぶりを示しているのである。
福澤から「小泉の如来様」と呼ばれた信吉の長男が信三であり、福田徳三をして「慶應義塾が近年に於て産出したる麒麟児」と激賞したほどの逸材となり、四十五歳で塾長に就任した。父子二代の塾長というのは、ハーバード大学総長エリオット父子の場合と同じく、数多い大学の歴史の中でも稀有の例と言える。
中上川 彦次郎

実業文明化の急先鋒
中上川彦次郎(なかみがわひこじろう、一八五四~一九〇一)は福澤の身内(姉婉〔えん〕の長男なので、福澤の甥に当る)にして、最も信頼された弟子であるが、その彼の薫陶を受けて育った多くの人材がその後の日本経済をリードする存在となったことは特筆に値する。例えば、『毎日新聞』を大成させた本山彦一、「東洋の砂糖王」と呼ばれた藤山雷太、「製紙王」と言われた藤原銀次郎、鐘紡を飛躍させた武藤山治、三井呉服店を日本一のデパートに変えた日比翁助(ひびおうすけ)、三井財閥の総帥を務めた池田成彬、阪急や近鉄、宝塚歌劇団を創業した小林一三(いちぞう)、森永製菓を興した森永太一郎、トヨタの豊田佐吉の後援者であった岩下清周(きよちか)など、中上川の経営理念を継承した実業家は数知れない。そのまま、近代日本の産業発展史と言ってもいいほどである。
さて、中上川は慶應義塾やイギリス留学で学んだ後、二十七歳で『時事新報』創刊に携わり、同紙を発行する慶應義塾出版社社長になった。同紙の初年度の発行部数は年間六十八万部であったのが、中上川の手腕で飛躍的に部数が伸びて先発の新聞を次々と追い抜き、五年目には二百八十七万部にまで達して、東京発行の主要新聞の中で第三位につけている。中上川は「時事新報は慶應義塾社中の熊本城なり…この城を築いてこの城を守る城将の面目この上あるべからず」と位置付けていた。その後、三菱で活躍していた塾の先輩荘田平五郎からの依頼を受けて、三十二歳で山陽鉄道会社支配人に就任し、さらに生涯の主戦場となる三井銀行へ三十七歳で理事として移っている。彼が多くの人材を育てることになったのも、実にここが拠点となっているのである(後に「人の三井、組織の三菱」と言われるようになる)。
中上川はここで徹底した合理主義を貫き、東本願寺の不良貸付金整理(中上川の月給が三百円の時に、東本願寺の借財は百万円に上り、彼は一年以内に債務履行をしなければ有名な枳殻〔きこく〕殿を差し押さえると通告し、「中上川こそ織田信長の再生、破戒無慙の仏敵」とまで非難されている)や政府関係への貸付金断ち切りを断行し、三井財閥の運営機構を合理的に再編成したのみならず、工業主義路線(中上川は「日本は工業立国でなければならん」という信念を持っていた)に立って財閥の資本を鉱工業に積極的に投資し、三井銀行をして近代的商業銀行たらしめるのである。
公私の区別をはっきりさせ、信賞必罰、公明正大、仕事に厳格であった中上川は「実業の武士道化」を鼓吹しており、「商売は儲けることが主であるに違いないが、文明的実業家として闊歩するには、従来の卑屈、虚言、権謀術数を弄するようなことは断固として排斥して、正義の観念に基づき、武士道によって終始しなければならない。このように武士道で金を儲けていけば、立派に実業家として成功できる」と主張して止まなかった。かくして、彼の下で多くの有為の人材、「士魂商才」の徒が育まれていき、敬愛してやまない師である福澤が亡くなるや、八カ月後にその後を追うようにして四十七年の生涯を終えるのである。ちなみに鈴木梅四郎は中上川を次のように位置付けている。
「福澤先生は社会の先覚者として実業界の改革についても、非常なる名論卓説を発表し、議論において世を教育されたことは何人も知るところであるが、福澤先生の説を実地に応用し、実業社会の進歩発達をはかって、いわゆる実業文明化の急先鋒となったものは、まず中上川先生であるといわねばならぬ。」
荘田 平五郎

三菱の大番頭として活躍
福澤桃介の毒舌批評は有名であるが、その名著『財界人物我観』で「財界でもっとも傑出した英雄」として岩崎弥太郎を挙げ、その岩崎が多くの人材を育てたことを強調すると共に、そうして輩出された人材の中で福澤の高弟荘田平五郎(しょうだへいごろう、一八四七~一九二二)に最高点を付けていることは注目される。荘田は福澤と同じく大分県の生まれで、明治三年(一八七〇)に慶應義塾に入学しているが、明治八年(一八七五)に三菱商会に入ってからは「三菱の大番頭」として近代的経営を軌道に乗せ、実業人としてその名をとどろかせた人物である。
福澤の荘田評によれば、「学問をやらせても、ソロバンをはじかせても、荘田なら二つながら出来る」ということで、福澤が幼少年生徒の訓育機関である童子局(後の幼稚舎)を作った時には荘田をその局長とし、さらに三田に移って、「慶應義塾社中の約束」を作った時もその起草に当たらせている。明治五年(一八七二)に大阪分校に出来た時には、荘田は福澤の代理格として赴任し、明治七年(一八七四)に京都分校に移った後、その夏には帰京して慶應義塾で教鞭を取ることとなった。この荘田が福澤の肝煎りで三菱に入社し、「番頭政治の三井、主人政治の三菱」と言われた三菱にあって大番頭となり、三菱の発展になくてはならない存在となるのである。荘田はここで大福帳式を改めて、『三菱会社簿記法』を著わして近代的会計制度を導入し、さらに「三菱会社々則」を起草して三菱の組織化を成し遂げ、岩崎をうならせたことは有名である(ちなみに荘田は「三菱三ケチ」の一人に数えられている)。荘田は元々、頭脳明晰、品行方正にして、外国事情に明るいばかりでなく、福澤が明治維新後にいち早く西洋の企業会計方式を翻訳して出版した『帳合(ちょうあい)之法』の訳業にも参加しており、商業数学に通じて学生達に講義していたのみならず、「慶應義塾社中の約束」の起草や大阪・京都の分校も経営してきているので、この荘田を通じて「一代の傑物」岩崎も福澤を信用する気になったというのである。
さらに日本で最初の生命保険事業である明治生命保険や東京海上火災保険、明治火災、日本郵船、東京三菱銀行、三菱倉庫、三菱地所、キリンビールなどの創立に参画してこれを主宰し、日本勧業銀行、南満州鉄道などの立ち上げにも加わっており、丸の内に官有地が売りに出されるやイギリスから電報を打ってこれを購入させ、一大ビルディング街を作り上げるなど、その緻密な頭脳と先見性は誰もが認めるところである。ちなみに福澤は『士人処世論』の中で、実業の運営に当たっては数理を重んじる「クールカルキュレーション」(冷理)が必要であると主張しているが、その実践者としてすぐに浮ぶのが荘田であることは間違いないであろう。
桃介も『財界人物我観』で荘田を次のように評している。
「事業の整理とか、ソロバンの明るい点において、日本で一番偉い。」
「荘田という男は、数理と経済にかけて、天才的な頭脳とこれを実行する勇気をもっていたという点において、明治年間に生んだ一番偉い人と思う。恐らく、岩崎弥太郎も、渋沢栄一も、そういう点では、荘田にとうてい及ぶまい。」
「万事理屈攻めで行くキチンとした人であったので、一見クールのようにおもえるが、事実は決してさようではない。よく人の面倒を見た。」
福澤 桃介

数多くの肩書きを持つ男
福澤の娘婿となった福澤桃介(一八六八~一九三八)は「破天荒の人物」と評される。桃介の七十年にわたる生涯の中で、彼につけられた代名詞はおよそ次のようなものである。
「神童」「美少年」「元祖慶応ボーイ」「天馬空を行く男」「兜町の麒麟児」「株成金」「悪辣な相場師」「希代の遊蕩児」「川上貞奴のパトロン」「奔放な事業家」「天才的経営者」「実業界の怪物」「財界の鬼才」「水力発電王」「日本の電力王」
桃介は福澤に関しても、「お世辞でなしに、明治年間に接した者の中で、一番の大人物は福沢諭吉だろう」と率直に認めつつ、しかし、富士山と英雄は遠くから見るがよい、離れて望んで八面玲瓏(れいろう)の藤もそばへ行くとアバタまじりで、汚くてとてもみられたものではないとし、「英雄もその通りで、私が福沢のそばにいたせいか、私には先生がそんなに偉いとは思えない。ある点については、先生よりも私の方がよほど偉いと思うことがある」と言ってのける人物である。
さて、桃介は明治十六年(一八八三)に慶應義塾に入学すると、早速、「髑髏狩り」(近所の刑場跡で夜中に髑髏を掘り出してくる肝試し、桃介が提案した)やら「賄(まかない)征伐」(寄宿舎の食堂荒らし、後に大日本精糖社長を経て日商会頭となる藤山雷太と桃介らが図った)やらで、福澤に散々怒られる一方、勉強をしている風には見えないのに成績は優秀であったため、桃介の頭の構造は「塾の七不思議の一つ」と言われていたという。そして、明治十九年(一八八六)、彼が慶應義塾第一回体育会で大活躍して注目を集めた際、福澤夫人錦と長女里が彼に目をつけ、次女房の婿養子として迎えられることとなるのである。彼は洋行(これこそ慶應義塾に入学した最大の目的であった)を条件にこの婚姻を受諾した。
かくして桃介はアメリカ留学へ出発するが、「福澤の七光り」と揶揄されていたことが悔しくてたまらなかったようであり、福澤の影響抜きには語れない前半生に対して、明治三十四年(一九〇一)、福澤が亡くなってからの後半生においては馬車馬のように働き、彼自身の実力において次々と事業を成し遂げていくのである。これが福澤家の二代目達との大きな違いとなったのであり、やがて、桃介は「一門の総帥」の如き立場に立っていく。
桃介は日清戦争後の株式ブームの時には、肺結核の療養中であるにもかかわらず、千円の元手からわずか一年で十万円の利益を生み出しており、これには慶應義塾の後輩で、熊の毛皮の上にデンと座って相場をはっていた後の「電力の鬼」松永安左エ門も大いに驚き、二人を生涯結び付けていく一因となったことは有名だが(桃介と松永は共に福澤の「散歩党」の一員でもあった)、日露戦争後の株式ブームでも約三百万円を儲け、明治三十九年(一九〇六)に脱サラすると、各方面から持ち込まれる事業話を取捨選択し、多くの会社の発起人や株主に名を連ね、さらに利ざやを稼いでいくのであった。こうして実業から虚業へ、そして虚業から再び実業へと身を移して行き、終生の大事業とも言うべき電力事業に本格参入していくのである。その評価は極めて高く、発電所のモニュメントには元老山県有朋・西園寺公望のみならず、発明王エジソン、フランス前首相クレマンソー、イギリスの政治家ロイド・ジョージ、無線電信の発明者マルコーニらがメッセージを寄せていることからも、それは窺えよう。
ちなみに桃介の経営者としての主な肩書だけでも次のようになる。
「王子製紙取締役」「日清紡績専務取締役」「福博電気軌道(後の西日本鉄道)創立社長」「日本瓦斯創立社長」「四国水力電気社長」「佐世保電燈創立社長」「愛知電気鉄道社長」「名古屋電燈社長」「電気製鋼社長」「木曾電気製鉄社長」「矢作水力電気相談役」「東海電気鉄道(後の名古屋鉄道)創立社長」「大阪送電創立社長」「大同電力社長」「大同製鋼(後の大同特殊鋼)創立社長」「関西電気社長」「北恵那鉄道創立社長」「豊国セメント創立社長」「天竜川電気創立社長」
朝吹 英二

最大の魅力は人脈形成力
朝吹英二(一八四九~一九一八)は元々福澤暗殺を図ったほどの「尊皇攘夷の志士」であったが、福澤の感化を受けてその門に入るや、「何十人も書生を置いたが、経費と当人の働きとをはかりにかけて、自分の方が得をしたのは朝吹以外には一人しかなかった」と福澤に言わしめた人物である。福澤自身も「鄙事多能(ひじたのう)」(下駄の歯がえ、障子の張り替え、米つき、雨樋の修繕など、つまらぬことがうまいという意味)ということをよく言っており、「身をもって事に当たる」人物に他ならなかったが、この「鄙事多能」という点ではまさしく朝吹こそが福澤の後継者であった。
「じつに不思議な男で、紡績をやればその通り、茶をやれば茶、美術をやれば美術、何事でも少しやればすぐにその道に精通した。よく中上川が、朝吹の頭には抽出(ひきだし)がある、紡績なら紡績の抽出を抜けばなんでも出てくる、美術なら美術の抽出を抜けば美術のことは何でも出てくるというたが、まったくその通りであった。」(『自叙益田孝翁伝』)
朝吹は豊前国(大分県)で十五代続いた庄屋の次男として生まれ、十七歳の頃から米相場に手を出し、豆相場、材木相場、何でもうまく、「山国谷に過ぎた人だ。行く末、この土地にいる人間ではない」とうわさされたという。後に兄嫁たみの親族・藤本箭山(せんざん、中津の鍼医者で福澤は藤本の従弟に当たる)が大坂に出るのに乗じて、その書生として住み込みで働くことになるが、その時に福澤が中上川彦次郎と共に藤本宅に立ち寄ることとなり、漢学の教養豊かな藤本はもちろんのこと、その玄関番にすぎない朝吹も交じって連日議論が戦わされ、福澤は自分の書いた『西洋事情』を朝吹に渡して中津へ向かった。朝吹は福澤の人格、見識に影響を受け、福澤が中津から戻って再び藤本宅に寄った時には、朝吹はちょんまげを切り、刀を十両で売って船賃を作って福澤を待っていたという。
かくして朝吹は慶應義塾に入塾するが、卒業後は福澤の依頼で出版局の主任となり(例えば『学問のすすめ』だけでも全部で十七編出て、当時の人口三千五百万人の中で合計三百四十万部が売れたのであるから、出版部門の確立は慶應義塾としても死活問題であった)、三百人以上の職人抱えて、製版、印刷、製本、販売、集金、雇用の一切を切り盛りし、大成功を収めた。ここで得た資金によって、中上川のイギリス留学も三田演説会の講堂建設も可能になったのである。中上川のロンドン留学中には、福澤の勧めで中上川の妹澄と結婚しており、長男常吉(後の三越社長)、長女福子(夫の名取和作は慶應義塾大学教授)を授かっている。
さらに福澤の勧めもあって、朝吹は岩崎弥太郎率いる三菱に入社、東京店支配人となっているが(福澤は岩崎を非常に評価しており、岩崎の最盛期を支えた人材は朝吹のみならず、荘田平五郎、馬場辰猪ら錚々たる福澤の門下生達であった)、彼の営業成績は抜群で、その実力・実績もさることながら、多くの人を引き付けて止まないその人間的魅力こそ彼の最大の武器であり、福澤の東京府議会議員辞職事件をきっかけに七百余名のメンバーを集めて交詢社を結成し、名実共に一大社交クラブとし得たのも、ひとえに彼の人脈形成力のなせる業であった。
やがて、朝吹は「外国人に独占された貿易業務に日本人の商権を確立する」という福澤のアイデアの下に設立された貿易商会(横浜正金銀行とセットで誕生した)に移るが、政府が貿易商会弾圧に転じて百万円(今日的には二十億円とも百億円とも言われる)もの負債額が発生した。会社の主力メンバーが離散する中で、朝吹はこれを一身で引き受け、以後、死ぬまで三十余年にわたって毎年二千円ずつ返済を続け、朝吹死後にもまだ十八万数千円が残ったが、それは常吉の代になって完全返済されたという。しかし、朝吹は「前代未聞の借金王」と呼ばれながら、この絶苦境の中にあっても実によく人の面倒を見続けており、大隈重信、尾崎行雄、犬養毅らが華々しく政治活動・政党活動を続けてこられたのはひとえに朝吹のおかげだと言ってよいであろう。彼は次のようにも言う。
「わしの一生は失敗のし通しでなに一つ成功といえるようなものはなかったが、部下から三人の大実業家を出したのだけは少し自慢できるかな。」
三人の大実業家とは藤原銀次郎(王子製紙を一流会社に建て直し、「製紙王」と呼ばれる。工業大学の施設一切を慶應義塾大学に寄付し、藤原科学技術財団設立などに巨額の資金を寄せた)、鐘紡社長武藤山治(「温情主義的経営」で高い評価を受けた)、富士紡績社長和田豊治(「紡績界の巨頭」と称された)を指すが、無論、彼によって人生が大きく左右された人物はこの三人だけではない。その生き様は今なお多くの感化を与え続けているのである。
松永 安左エ門

国家権力への反骨精神
福澤の直弟子として、生涯、その薫陶を根っ子に持ち、実業界で東奔西走して百社を超える会社を育て上げ、ついには「電力王」「電力の鬼」と呼ばれるまでになるが、決して権力に屈することなく、国家的事業に邁進して戦後日本の産業基盤の基を築いたのが松永安左エ門(一八七五~一九七一)である。三鬼陽之助によれば、「終戦後まで活動した代表的な慶應財界人といえば、池田成彬、藤原銀次郎、小林一三、松永安左エ門だが、この四人に共通しているのは、時の権威に対する気骨である。その反骨精神の圧巻は、やはり松永である」という。
松永は明治二十二年(一八八九)、十五歳の時に慶應義塾に入学しているが、ある時、校内で先生に出会ったので、丁寧におじぎをしたところ、後ろから老人(福澤、五十六歳)に肩を叩かれ、次のようにたしなめられたことは有名なエピソードである。
「今おじぎをした人人はみな、お前さんの先生ではない。お前さん方の仲間で同格の人だ。ただ年が上で、本が少し早くわかっているから、お前さん方の先に立って輪講をしてくれるだけなんだ。別にお前さん方を教えているというほどのもんじゃない。お前さんたちと一しょに学問をしているにすぎん。塾で先生といえば、まあ私だけぐらいになるが、この私にもおじぎなぞしちゃいけない。ほんの、おたがいのえしゃくだけでいいんだ。お前さん方も学校や先生に勉強させてもらうんでなく、本当は自分自身で勉強しとるんだよ。」
松永は福澤の毎朝の散歩にお伴し、いつでもどこででもその時その場のものを教材にして一つ一つ教え諭す、その姿勢に強く影響を受けたという。ある時、松永が「壱岐の海女はあわびを取るために二、三十分も海中にもぐる」という話をしたところ、福沢はすぐさま松永自身に実験させ、息を止めることが一分も続かないことを確認させて、「どうだ、何事も実験してみればよくわかるだろう、海女でも一分内外のものだろう、学問とは実験することだ、空理空論は社会のためには何の役にも立たないものだよ」と教えている。松永にとって福澤が如何に大きい存在であったかは、次のような言葉にも窺えよう。
「年久しく幾百、数千の人々と出会ってきたが、福沢先生ほど懐かしく、尊く思われる人はいない。」
「自分の先生だからといって、ずいぶん褒め上げるじゃないか、と冷やかす人があるかもしれないが、日本開闢以来の三大偉人とは、聖徳太子、弘法大師、福沢諭吉であろう。」
「わしはひねくれ者で物おじしない人間じゃが、世の中に三人怖い人間がいた。それは祖父と福沢先生、それに(竹田)黙雷和尚じゃよ。」
さて、松永は慶應の先輩である尾崎行雄と犬養毅の影響もあり、福澤と相談の上で慶應を退学して実業の道へ乗り出すことになるが、彼はそこから日本銀行を経て、兄貴分である福澤桃介の丸三商店を手伝った後、福松商会を作って独立した。ここで武藤山治の助力を得て石炭を商い、彼の実業人生が本格的にスタートすることになる。そして、最終的には「電力」(そもそも日本の恵まれた天然資源を生かした水力発電の利を、最初に本格的に説いたのは福澤であった)を主戦場として百余社を支配下に置き、国家権力との対決も辞さず、逆に国家の方向性を断固として決定づけるほどであった。
戦後、GHQは電力再編計画として松永案を採用し、池田勇人首相もその感化を強く受けて政策にそれを反映させている(当時、「池田内閣の経済政策は松永を切り離しては考えられない」と見られていた)。松永はさらに産業計画会議(日本で最初のシンクタンクと目されている)を主催して国に勧告を行なっているが、「大正から昭和にかけて働いた実業家には、自分だけよければよいというような見識の低い人たちはいなかった。自分たちの利益のみが前提となっている議論が盛んに行なわれているのを聞くにつけて、真実、日本の経済人もスケールが小さくなったと心細く思ったものだ」と嘆きつつ、九十六歳の生涯を終えるのである。
参考文献:『日本の経済学を築いた五十人 ノン・マルクス経済学者の足跡』(上久保敏、日本評論社)、『適塾と松下村塾 凡才を英才に変えた二大私塾の教育法』(奈良本辰也・高野澄、祥伝社)、『新訂福翁自伝』(福沢諭吉著、富田正文校訂、岩波文庫)、『福沢諭吉』(会田倉吉、吉川弘文館)、『名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて』(今泉みね、平凡社)、『別冊太陽 慶應義塾百人』(平凡社)、『随筆 慶應義塾 続 エピメーテウス抄』(高橋誠一郎、慶應通信)、『福沢諭吉』(会田倉吉)、『小泉信三全集 第五・十一・十六・十九巻』(小泉信三、文藝春秋)、『福沢山脈 上下』(小島直記、河出文庫)、『福沢諭吉 国民国家論の創始者』(飯田鼎、中公新書)、『中上川彦次郎の華麗な生涯』(砂川幸雄、草思社)、『小泉信三伝』(今村武雄、文春文庫)、『中上川彦次郎の華麗な生涯』(砂川幸雄、草思社)、『財界人思想全集1 経営哲学・経営理念明治・大正編』(中川敬一郎・由井常彦編集・解説、ダイヤモンド社)、『20世紀日本の経済人』(日本経済新聞社編、日経ビジネス文庫)、『志に生きた先師たち』(小島直記、新潮文庫)、『財界人思想全集5 財界人の労働観』(間宏編集・解説、ダイヤモンド社)、『電力王 福沢桃介』(堀和久、ぱる出版)、『当世畸人伝』(白崎秀雄、新潮社)、『商人道おもしろ史話』(羽生道英、毎日新聞社)、『わが人生は闘争なり 松永安左エ門の世界』(松坂直美、教文出版)、『これが男のビジネスだ 電力の鬼松永安左エ門に学ぶ』(浅川博忠、東洋堂企画出版社)、『まかり通る(上・下)』(小島直記、新潮文庫)
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慶應義塾ゆかりの本

『人間 福澤諭吉』 松永安左エ門著・実業之日本社
等身大の福澤像描く
著者の松永安左エ門は、戦後、電力会社の国営化に一人反対し、電力の安定供給を実現し、日本経済の発展に多大な貢献を成した人物である。それゆえに、「電力の鬼」という異名を持つ。松永は、必要とあらば、国家権力にも盾突く独立自尊の精神を持った人であり、福澤諭吉の門下生を代表する一人である。
松永は、福澤の偉大さを讃えて、日本開闢以来の三大偉人と呼んでいる。すなわち、聖徳太子、弘法大師に並んで三人目と述べている。通常、世の中では、福澤の業績ばかりに目が向きがちである。本書は、そのことを憂い、福澤の秀でた大らかな人間味と闊達自在な庶民性を世に伝えるべく、執筆されたものである。
彼が、福澤に教えを受けたのは、十年間ほど。本書では、その間に体験したエピソードや福澤の人柄を表す出来事を紹介している。福澤精神の神髄に通じる逸話から、とても茶目っ気あふれる人間味あふれる様子を伝えるものまで、様々ある。いまや、生きて福澤と交流した者がいなくなる中、その人柄を知ることができる貴重な書ともいえる。
読んでみると、さすがは慶應義塾の創立者だと、賞嘆するような立ち振る舞いである。一方で、なぜそのようなことをするのかと、首をかしげるような内容もある。明治維新期の偉人という目線ではなく、あくまで等身大の人間・福澤諭吉を扱っている。(K)
【税込み一〇五〇円】

『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』 北康利著・講談社
諭吉の人情味あふれる人柄
福澤先生が現代に蘇ったら――そう考えただけで身のすくむ思いがする、と著者は語る。私立為業、自由教育、女性の地位向上、地方分権等々、先生が生前提示した問題のうち日本人が満足に達成できたものは皆無といっていい、今の日本人に「馬鹿野郎!」と叱ってもらいたい、との思いが執筆の動機となったらしい。
本書は諭吉の生涯を辿りながら、多彩な人間関係やエピソードを紹介している。自分の命を奪おうとした朝吹英二へのわけ隔てない愛情、ともに理想を追い求めた盟友・大隈重信との絆、東大医学部を追われた北里柴三郎への惜しみない援助、朝鮮人愛国者・金玉均と組んでの国境を越えた封建制度への戦い等々、諭吉の人情味あふれる人柄と積極果敢な性格に惹き込まれ、偉大な思想家が身近な存在に感じられる。
そうした諭吉像を追いながら、その教育理念に、徹底して「独立自尊」の精神が流れていることを著者は強調する。他に頼ることなく、自らの尊厳を自らの力で守る。国に依存することなく、民の立場から国に貢献する。その精神は門下生たちにも脈々と受け継がれ、「福澤人脈」として実業界、教育界、司法、医学、あらゆる分野で日本近代化の基礎を築くことになる。
日本をよい国にしていこうとする情熱、そのために必要なことを行っていく決断力と実行力、著者は今の日本人に大切なものを我々に示してくれる。
より大きな志を持って社会に貢献しようとする人に、ぜひ読んでほしい一冊である。(Y)
【税込み一八九〇円】

『慶應三田会』 島田裕巳著・三修社
三田会の実態に迫る
本書は、慶應の卒業生によって構成される連合三田会の実態を、様々な観点から検証している。まず三田会は、年度三田会、地域三田会、職域三田会、諸会などに分類される。そのすべての団体の連合体が、連合三田会である。
この連合三田会の結束力、また、存在している範囲は広く、アメリカやブラジルなどにも存在し、日本では国会や霞ヶ関、またなんと早稲田にも存在している。早稲田にも、連合三田会と同じ同窓会にあたる稲門会が存在しているが、その結束力は三田会のほうがはるかに勝っている。
その理由として、早慶の個性の違いが挙げられる。著書によると、ある大手損害保険会社の新入社員の150人のうち、およそ30人が慶應生である。その理由として、慶應では学生・卒業生との交流が盛んで、自主性やコミュニケーション能力が際立っているという。それに対し、早稲田ではお互いに集まろうという動きもなく、OBに頼ろうという雰囲気もない。このような個性の違いが、同窓会の結束力の違いを生み出しているといえる。
このように結束力が強く、また社会に多くの影響を与えている三田会だが、その実態は塾以外ではあまり知られておらず、研究もされてはいない。三田会をモデルとしながら、同窓会の結束の強化に乗り出している大学も少なくない。しかし、三田会のような巨大同窓会を作るのは、一朝一夕にできるものではない。慶應の場合、150年の歴史の中で培われてきた明確な教育理念・伝統が、三田会の礎になっている。(M)
【税込み一八九〇円】

『早稲田と慶応』 橘木俊詔著・講談社
早慶の人気を検証
最近、慶應・早稲田と、日本の私立大学の両雄の活躍ぶりが注目される。政界においては、両校出身の首相が続いていた。財界を見れば、名だたる企業の社長の経歴には、慶應卒の文字が目につく。いまや、分野によっては、国立名門校を凌がしている。本書は、なぜ早慶の両校が、これほどまでに地位を高めたかについて、幅広い視点から検証を試みたものである。
大きく四つのテーマに分けて、検証は進められる。まず、人気が高まった社会的背景について。次に、私大において生命とも言える創設者の建学精神、校風。そして、両校について、おのおのの特色を取り上げながら紹介・解説。最後に、大学の目的から少子化時代における大学経営について、言及している。
それぞれのテーマで、様々なデータを扱いながら、検証していくので、分かりやすい。著者は早慶の関係者ではなく、教授や卒業生などに取材を行いながら、客観的に書こうとしている。また、両校出身者の人物像なども取り上げていて、読みやすく、バランスの良い構成になっている。
各界に、優秀な人材を輩出している早慶であるが、当然、課題もある。例えば、慶應に対しては、結束力の強さが、逆に閉鎖主義に発展する危険性を取り上げている。そして、早慶両校が、世界の超名門校入りするためには、学問・研究分野の飛躍が必要とまとめている。現状を理解するのに、大いに参考になる一冊である。(K)
【税込み七五六円】
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大学比較特集 慶應グローバルの現状
研究力向上が課題
最近、世界の大学ランキングが大きな注目を浴びている。有名なのは、英タイムズ紙と上海交通大学が発表している大学ランキングだろう。いま義塾では、国際化の進む社会を踏まえ、「慶應グローバル」という世界基準に沿った学塾を目指している。では実際、世界における義塾の立ち位置は、どこにあるのか。世界の大学ランキングの数値などを活用しながら、検証してみたいと思う。
ランク本当に降格!?

義塾は二〇〇八年、タイムズ紙のランキングにおいて、二百位以下に転落した。しかし、このことが世界の大学と比較して、レベルが下がったと単純には言いにくい。なぜなら、総合スコアによるランキングの特徴として、上位を除いて、わずかな差により順位が激しく変動しやすいのだ。これは、私学高等教育研究所の研究双書「世界大学ランキングの比較」(二〇〇五年三月、以下研究双書)に詳しい。
実際、義塾は二〇〇六年では百二十位だったので、わずか二年で百位近く順位を落としていることになる。しかし、一年二年で、大学の構造が大きく変動するとは考えにくい。ここからも、結果が現状をその如くに表していると、一概には言えないことが理解できる。
だから、ランキングを活用する前に、理解しておくべきことがある。それは、大学を総合評価するものではないということだ。一口に大学といっても、総合大学と単科大学といった違いや、国立と私立、理系に強い大学や文系大学、マンモス校や小規模大学など、様々な形態がある。それだけに、ある特定の指標を使ってランク付けるという単純比較は、本来無理がある。実際、前述の二つのランキングにおいても、ある傾向が見られ、評価にだいぶ差がつく大学もある。(詳しくは、先に挙げた研究双書を参照してほしい)。
ただし、実際、世界の大学との比較をするにおいて、何らかの形での数値化は分かりやすい。そのため、各ランキングの性格を理解した上で、活用することは、大学の長所・課題を理解する助けとなり、有効なことだと思われる。このことを前提に、世界の上位校と義塾の各スコアを比較しながら、現状の分析を試みてみたい。
米私大の巨大な大学資金
表1は、二〇〇六年九月に、『ニューズウィーク日本版』で発表した「大学ランキング世界トップ100」の上位十校である。『ニューズウィーク日本版』は、英タイムズ紙と上海交通大学がそれぞれ大学ランキングで用いた指標を参考に、大学の「グローバル度」をランキングした。ほかのランキングが、論文の引用数など、研究力に偏りやすい中、国際性により焦点を置いたのは興味深い。
このように見てみると、上位校はどこも歴史ある伝統校であることが分かる。その点、義塾も負けてはいない。そして、学生数を見てみると、義塾はむしろ規模が大きいことが分かる。ただ、大学院生の割合は、上位校が三〇%を越えている中、義塾は一四%と圧倒的に少なく、この辺りが研究力の差になっているようだ。また、アメリカの学費は三万ドルを超えるところが多く、かなり高い。一方、イギリスは五千ドル台と安い。欧州の大学は、国公立が多く、一般的に学費は安いようだ。ドイツの大学は、学費がただという話は有名である。
なお、ハーバード大学は、世界でも飛び抜けた大学資金を誇り、二〇〇八年で約三兆七千億円になる。年間の寄付金は、六百九十億円程度である。義塾が創立百五十年記念事業募金として、ここ三年間で二百五十億を集めたが、比べればその差は歴然としている。また、ハーバード大学は、この基金の運用で年間八%の収益(三千五百億円)を出している。義塾の平成十九年資金収支決算の額が、二千六百億円であることと比べれば、その巨大さが理解できる。
研究成果と資金に相関関係

上海交通大学の世界大学ランキングは、大学の学問と研究の力を主な指標としている。つまり、大学の大きな役割の一つである教育については、評価する指標がない。また、英語誌の論文数および引用数が、大きなウエイトを占める。しかし、人文・社会科学は、英語で論文が書かれることの少ない。そのため、当ランキングでは、人文・社会科学系の大学は、有名なところでも評価が低くなる。よって、主に理系の研究力を見る上では、参考になるランキングと言えよう。
表4は、二〇〇八年の上海交通大学による世界大学学術ランキングである。義塾は、ノーベル賞、フィールズ賞の受賞者がいないので、当然、Alumni(ノーベル賞、もしくはフィールズ賞の受賞卒業生の数)、Award(ノーベル賞、もしくはフィールズ賞の受賞スタッフの数)は0になる。そして、HiCi(被引用研究者数)、N&S(ネイチャー誌とサイエンス誌に発表された論文数)は、上位校とかなり差がある。かろうじて、PUB(論文引用数)が他の指標より高い。これはHiCi、N&Sが低いことを考えると、少数精鋭で良い研究を生み出し、健闘しているように見える。実際、義塾では世界トップレベルの研究も行われている。ただ、HiCi、N&Sの数値が低い他の大学にも、同様の傾向が見られるので、そういう性格の指標のようだ。
表にはないが、上位百位にランクしている国内の国立大学と比べると、各指標で二倍以上の差がある。総合的な研究力においては、国立に差をつけられているのが、現状のようだ。その差を生み出しているのが、研究の規模、言い替えれば研究資金の差と考えられる。
橘木俊詔氏の著書、『早稲田と慶応』に見ると、優秀な研究業績と研究費用には、相関関係のあることが分かる。東大・京大の平均被引用論文数を四五一・一とすると、慶應・早稲田の平均数値は、わずか四四・五・その差は、約十倍である。その他の旧帝大の平均値と比べても、約三倍の開きがある。
また、研究費において、東大・京大は、教員一人あたりの科学研究費配分額が七百万円を超え、断トツである。一方、義塾は上位三十位にも入らず、東大・京大と四倍以上、旧帝大の平均値と二倍以上の差がある。ちなみに、研究費の総額では全国第十二に入る。義塾は、研究者の数が多いので、一人当たりに換算すると上位三十位以内に入らないようだ。研究費用の総額は、国からの補助金の差が、そのまま反映していると考えられる。
世界でも、例えば、ハーバード大学の持つ巨額な資産(「基本情報」の項目を参照)が、同大学の世界一流の研究成果を支えていると考えられる。何にせよ、義塾も何らかの策を講じないと、研究力の向上は望めない。
「早稲田と慶応」の著者・橘木俊詔氏は、一つの方法として、教員の間で差をつけることを提案している。優秀な研究成果が期待できる教員には、教育義務のウエイトを下げ、給料や研究費を多く支給して研究に専念させれば、レベルの高い研究が期待できるというものだ。急激な資金増は難しいことを考えると、興味深い案である。

国際性に遅れる日本
英タイムズ紙では、六つの指標を使い、大学をランキングしている。表2・表3は、タイムズ紙の発表した世界大学ランキング二〇〇七の結果である。当ランキングでは、PR(研究者の評価)の配分が四〇%と高いため、この数値がかなり順位に大きな影響を及ぼす。これは、先の研究双書で検証している。ここで、義塾のPR(表3)を見てみると五二である。上位校が、軒並み一〇〇であることと比べてみると、かなり低い。国内の上位校を見ても、やはりPRが高い。
REC(雇用者の評価:採用したい学生の出身大学)、SFR(教員数と学生数の比率)に関して、義塾はREC八八、SFR九一と比較的高い数値を出している。弱いのが、CIT(教員一人当たりの被論文引用件数)である。国内と比較しても、軒並み国立に水をあげられている。これは、「研究力の差」の項目で取り上げるが、研究費の差によるものと考えられる。
また、国際性の一つの指標となるINTF(外国人教員比率)とINTS(外国人学生比率)が、かなり低い。これは、国内大学の全体的な傾向でもある。例えば、義塾の留学生数は、九百三十四人(平成20年5月1日現在)。全体の中の割合では、二・八%しか在籍していない。一方、一位のハーバード大学では、留学生の割合は二一・六%。二位のケンブリッジ大学は、二三・一%。三位のオックスフォード大学は二六・九%となっている。グローバル化を目指すには、外国人と接する機会が多い方良い。ランキングの順位を上げるという以上に、INTFとINTSをトップレベルに引き上げることは、必須事項である。
格付けは国内大学で最高評価

義塾は二〇〇四年一月、スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)と格付投資情報センター(R&I)の格付け機関二社から、格付けを取得した。S&Pによる格付けは、AA、アウトルックは「安定的」、R&Iによる格付けはAA+という評価だった。二〇〇八年十月末現在、この評価は維持されている。なお、アウトルックとは、今後の見通しのことである。「ネガティブ」になると、今後二年以内に格下げされる可能性を意味する。
S&Pは、企業など(株式と債券の発行体)の信用力を調査研究して信用格付けを行う格付け機関である。これまで、世界の六百を数える大学の格付けを行っており、世界規模で大学間の相対的評価が可能となる。国内では、現在五大学が評価され、義塾のAAは国内最高評価である。表4は、二〇〇四年の時点での格付けである。そのため、少し古いデータで、現在は若干変わっていることに注意していただきたい。これを見ると、財務状況において、義塾はシカゴ大学など、世界大学ランキングの上位校に引けを取らないことが分かる。私大において、質の高い教育と研究を実現するためには、適切な学校運営による財政基盤の確立が重要になってくる。その意味で、義塾が格付け機関から一定の評価を取得していることは、評価に値する。
義塾が、格付け機関から評価されたのは、財務内容とマネジメント能力。格付けは、定量的評価と定性的評価を総合して決定される。定量的評価とは、有利子負債やキャッシュフローなど、財務面からみた債務返済能力であり、定性的評価とは、トップの経営理念とリーダーシップ、戦略性である。評価の内容を、S&Pからのプレスリリースから抜粋して紹介する。
多様性、先進性に富むトップレベルの教育・研究能力を有し、学生獲得や外部資金獲得などで非常に高い競争力を維持している。(中略)同校は多額の運用資産を保有しており、実質無借金であるうえ、収入源が資産運用収入や事業収入などに分散され、安定的な収入・キャッシュフローを維持できていることから、財務基盤が強固である。(以下省略、S&Pからのプレスリリースより)
なお、ハーバード大学やスタンフォード大学といったAAA格の大学は、寄付金収入や資産運用収入などによる潤沢な資産を誇る(「基本情報」の項目参照)。この差は、すぐには埋まらないが、義塾としての筋道を立て、継続した財務改革に期待したい。
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慶應義塾 150年の歴史
時代に人材輩出し全社会の発展に貢献

日本の大学で最も古い歴史を持つ慶應義塾。その百五十年の歩みは、決して平坦なものではなかった。数々の試練や苦境に晒されながらも、今日まで力強く、そして確かにその足跡を残してきた。ここでは、義塾百五十年の歴史を振り返ることで、そこに創立者福澤諭吉の大きな志と義塾に対する想い、また、その意志と精神を受け継いだ多くの門下生、諸先輩方の心血滲む努力があったことを悟り、私たち社中の原点を見つけてほしい。
慶應義塾誕生
蘭学から英学へ転向
慶應義塾の創立は、今から遡ること百五十年、安政五年(一八五八)冬のことである。福澤諭吉が江戸築地鉄砲州の中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学塾にその起源を置く。
時代は、嘉永六年(一八五三)のペリー、安政二年(一八五六)のハリス来航など欧米列強の脅威にさらされる、まさに幕末の大転換期であった。世の中では国防論議が盛んになり、幕府は遅ればせながら西洋技術の本格導入に着手、蘭学の研究は諸藩にとって急務となっていた。
安政五年(一八五八)十一月、適塾で塾頭をしていた福澤のもとに、中津藩から江戸出府を命じる一通の手紙が届く。差出人は江戸留守居役の岡見彦三で、藩内での蘭学振興のため、江戸藩邸内に蘭学塾を開こうとしていた。
最初、適塾での福澤の先輩にあたる杉亨二と、薩摩藩出身の蘭学者である松木弘安が出講していたが、二人とも都合が悪くなってしまう。後任を誰にするか困っていたときに、蘭学に通じた中津藩士がいるとの噂が入ったのだった。
その後、福澤は中津に帰省してから洪庵に会いに適塾に立ち寄り、同行を志願した岡本周吉(のちの古川節蔵)とともに江戸に入る。住まいとしてあてがわれた中屋敷の長屋に開いた蘭学塾が、まさにのちの慶應義塾である。
長屋の間取りはというと、一階に六畳の床の間付きの座敷と三畳の台所があり、奥が縁側と便所。二階には十五畳の広間があり、家の前には共同の井戸があった。場所は、現在の聖路加国際病院(中央区明石町)が建っているあたりである。
以前から蘭学塾を開いていたわりに塾生の集まりは悪く、最初はわずか三、四人であった。初代塾長は岡本周吉が務めることになり、この頃の塾生としては幼稚舎を開いた和田義郎らがいた。
翌安政六年、日本は欧米との修好通商条約に基づき、長崎、神奈川、函館の三港を開港。福澤は身に付けたオランダ語を試そうと神奈川村(現在の横浜)外国人居留地へ出かけ、さっそく外国人と会話をしてみた。しかし、なぜか言葉が通じない。通りの店の看板や商品のラベルに書いてある文字が読めない。当時、イギリスが覇権を握り、世界は英語を中心に動きつつあった。
「此後は英語が必要になるに違ひない。洋学者として英語を知らなければ迚も何にも通ずることが出来ない、此後は英語を読むより外に仕方がないと、横浜から帰た翌日だ、一度は落胆したが同時に又新に志を発して、夫れから以来は一切万事英語と覚悟…」(「福翁自伝」)。
とてつもない衝撃に愕然とする福澤だったが、その目はすでに先に向けられていた。いち早く英学への転換を決意したことで、諭吉と慶應義塾の未来は大きく開けていくのである。
大学部設置
帝国大学への対抗心
明治十年代以降、政府は官立学校育成に力を注ぐ方針をとり始める。これは、民主導の英米流教育政策を推進していた文部大輔田中不二麿が失脚したことと、十三年に施行された「改正教育令」の影響が大きい。その後、日本の教育政策は、国家主義的な考え方を背景とした「上からの」指導が主流となっていく。
特に十年に創設された東京大学は、文部省から予算全体の約四〇%をつぎ込まれる充実ぶりで、十九年には帝国大学令が公布されて帝国大学と改称し、法・医・工・文・理の五文科大学に加え、大学院まで併せ持つまでになっていた。
また同時に、政府の私学圧迫政策も断行される。十七年の「中学校通則」改正により、義塾出身者が官公立学校の校長もしくは教頭になれない条項が制定される。さらに、十六年施行の「改正徴兵令」では、兵役免除および猶予の特典を官公立諸学校だけに限定し、私立学校には認めないとする事件が起こる。明治初期に洋学の流行につれて自然発生した多くの私学は経営に行き詰まり、次々と閉校していった。
こうした趨勢を受けて、福澤はこのまま帝国大学に後塵を拝するわけにはいかないと、文学・理財・法律の三学科からなる大学部設置を決意。義塾内でも十九年ころから従来の英学だけでなく専門学を要望する声は高まり、当時大蔵省主税官を務めていた小泉信吉を慶應義塾総長として迎え、設立準備を開始する。
ハーバード大学総長エリオット博士に相談を持ちかけ、彼の推薦により三人の新進気鋭の学者を主任教師をして招聘。明治二十三年(一八九〇)、文学、理財、法律学科の三科からなる大学部を発足、私立初の総合大学の誕生であった。
大学部自体も決して最初から順調だったわけではなく、経営困難のため一時存続が危ぶまれ、設置五年にして廃止論さえ出たことがあった。
二十三年開設の目標在学生は各科百人ずつ、三科合計三百人で出発したが、ふたを開けると五十九人と予想の定員数を遥かに下回る結果となった。明治法律学校(現在の明治大学)の二十六年卒業者が百七十八人だったことと比較しても、その悲惨な状態がわかる。
主な原因として、普通部からの進学者が少なかったことが挙げられる。当時は、普通部を卒業すれば慶應卒のエリートとして世間に通用する時代で、ほとんどの学生がそれに満足して敢えて大学部に入ろうとは思わなかった。
大学部の不振は止まらず、授業料その他では教員の俸給をまかなえずに赤字財政が続いた。小泉の後に塾長となった小幡篤次郎も大学部を廃止して普通部に力を注ぐべきだと考えており、評議員の中上川彦次郎も大学部廃止やむなしと考えていた。
これに断固反対したのが福澤だった。官公立大学に負けるわけにはいかないという意地と、日本社会を憂え将来を考えてのことだった。若手教員もその熱意に続き、福澤は社頭として自ら陣頭指揮をとって募金活動の先頭に立った。そして、六歳にして幼稚舎に入り二十二歳にして大学部を卒業するという、現在まで続く一貫教育の制度を確立するのである。
塾生の活動
早慶戦の伝統始まる
明治の文明開化が円熟期を迎えた三十年代頃は、塾生の課外活動が活発になりはじめた時期でもあった。
明治三十五年、音楽学校以外による初の総合音楽団体としてワグネル・ソサイエティーが発会。翌三十六年には、三田演説館で第一回演奏会を開催した。同じ頃創設された弁論部は四十四年に初の巡回講演会を行い、東海道から北陸にいたる各地を回って熱弁を振るっている。三十一年には絵画愛好者が集まってパレット倶楽部が創設、現在も百年以上の歴史を刻んでいる。今や塾内最大のサークルとなった英語会が誕生したのも、三十八年である。
スポーツの隆盛もめざましかった。明治二十五年に体育会が発足。剣術、柔術、野球、端艇、体操各部を集合統一し、新たに弓術、操練、徒歩の三部が設けられた。その後、三十五年に庭球部が体育会に加盟。翌年、三十三年に創設されていた蹴球部も体育会に加盟し、四十四年には綱町グラウンドで日本最初の蹴球対決として第三高等学校と対戦した。
今では恒例の早慶戦が始まったのもこの頃である。三十六年十一月、綱町運動場で初めての早慶両校による野球試合が開催され、以降早慶戦は春秋二回ずつ行われることになった。
今や義塾の象徴であるペンの徽章と三色旗が生まれたのもこの頃である。明治十八年(一八八五)、高田源次郎ら八人の塾生が大枚六円をはたいて服と外套を作り、着用して街を歩いていたところ、もの珍しい格好にシャム(現在のタイ)の留学生と間違えられてしまう。慶應の塾生だと一目でわかるものが必要だと感じた彼らは、教科書として使っていたクワッケンボス著『文章論』中の「ペンは剣よりも強し」という格言を参考に、ペンと剣が交差した図案の徽章を作ることにした。これはたちまち評判を呼んで塾生の間に広まり、その後、昭和十五年に現在のペンが二本交差した形として正式に採用された。
一方の三色旗だが、こちらは運動会で使う紅白の幔幕の白い部分が汚れやすいということで、時の鎌田栄吉塾長が白を浅黄に染めさせたのが始まりらしい。ちなみに現在の三色旗は当時とは違い、青が赤をはさむ形で三段に配色されている。
明治14年の政変
義塾は実業界へ進出
明治十四年の政変とは、この年の十月に、参議の筆頭であった大隈重信とその一派とみなされた福澤門下生らが政界から追放された政治事件のことを指し、この政変は義塾のその後の進路に重大な影響を与えた。
明治十三年、福澤は国会開設の意見で一致していた大隈重信、伊藤博文、井上馨から、民衆啓蒙を目的とする政府機関紙の発行を依頼される。福澤も国民主導による政権交代可能な政府の実現を願っていたので、快く受諾する。
しかし、その翌年の六月、憲法制定に関する「意見書」の内容をめぐって、大隈と伊藤との間に鋭い対立が生じる。伊藤など他の参議が国会開設穏健派だったのに対し、大隈は早期国会開設論だったからである。しかも、イギリス流の立憲政治を説く内容は、この二カ月前に交詢社で発表された「私擬憲法案」と類似点が多く、福澤の憲法案であると政府側に誤認されてしまうのである。
さらに、十四年八月、北海道開拓使払下げ問題が世を騒がせ、藩閥内での官有物の払下げは不正なりとして民論は沸騰し、激しい政府攻撃の道具に使われることになる。反対運動の急先鋒と見られた者には、福澤門下生が数多くいた。大隈も払下げ反対を表明し、藩閥と一線を画している政治家として、その声望はいやが上にも高まった。
これらを受けて政府側は、大隈と福澤、その門下の者は、結託して政府転覆の陰謀を企てていると強い危機感を抱く。そして遂に、伊藤は大隈の政界追放を決行、当時官界にいた矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅ら福澤門下八人も一掃され、野に下るのである。
政変の義塾に及ぼした影響は二つある。一つは、福澤が政府から依頼された新聞とは別に独力で「時事新報」なる不偏不党の新聞を発行し、言論界に一層の飛躍を行ったこと。
もう一つは、義塾出身者の官界、教育界に進む道が狭くなったことである。この政変を境にして、義塾出身者の多くが実業界方面に進出した。そうして明治三十年前後から、福澤門下生たちが、日本における産業興隆期の波に乗り、先駆者的役割を果たしながら大きな足跡を残していくのである。
福澤諭吉逝去
社中団結で新たな出発
慶應義塾の二十世紀は、塾祖福澤諭吉の逝去にはじまる。明治三十四年一月、脳溢血を再発した福澤は、懸命の治療も功を奏せず病状悪化。皇太子から見舞い品を下賜された翌日の二月三日夜、ついにこの世を去った。享年六十六。
福澤の訃報を受けた新聞各紙は一斉に弔詞を掲げ、「吾輩安ぞ国民と共に我が学術界教育界の為に翁の遠逝を悼まざるべけんや」(東京日ゝ)「翁その人の私のために悼むにあらず、日本の公のために悼む」(東京朝日)などその死を悼んだ。衆議院も七日、「夙に開国の説を唱へ力を教育に致したる福澤諭吉君の訃音に接し慈に哀悼の意を表す」との哀悼決議案を議決している。
翌八日、善福寺で質素な葬儀が行われた。葬列は普通部幼稚舎生を先頭に一万五千人が粛々と続き、「行列中一基の造花生花もなく、又喫煙若しくは声高の談話を為す者なく終始静粛なりしは、一入人を感動せしたるが如し」(福澤諭吉哀悼録)であったという。塾社中の気持ちは、時事新報に掲載された小幡篤次郎の弔詞に象徴されよう。「天命如何ともすべからず、遂に今日の不幸を見るに及べり。嗚呼哀哉」。
悲嘆も覚めやらぬ中、大黒柱を失った義塾は、ともかくも団結を迫られることになる。実際、徳望のある塾主が死ぬと学生が離散し、私塾系の学校はそのほとんどが消えていった。義塾関係者も例外なく不安を抱えていた。
しかし、義塾は持ちこたえる。小幡篤次郎が立ち上がり、評議員会で義塾の維持存続への固い決意を亡き師に向けて誓いあった。三月には「光栄ある慶應義塾をして将来永く磐石の基礎に立たしめん」として慶應義塾維持会が組織され、「会計の困難はその常に免れざる」状態だった慶應義塾の基盤が強化された。翌四月には義塾同窓会が「同窓会規約」を制定して同窓会の結束を固め、明治三十五年には交詢社に三田会が発足、以降、全国各地に広まっていった。
かくして三田会、維持会による精神・財政両面における義塾維持体制が確立されていくのである。
創立50年
図書館旧館の建設
慶應義塾は明治四十年に創立五十年を迎えた。これと前後して義塾は各方面で記念事業を開催し、施設、制度の整備を進めている。
施設整備の筆頭は図書館(現在三田旧図書館)建設だろう。増加する蔵書保管の要請もあって計画された図書館建設は、多くの寄附を集めて四十二年に着工、大正元年に竣工を見た。そのゴシック建築のモダンな姿は、「慶應義塾の一大偉観だといふので天下を驚かせ」(『鎌田栄吉全集』第一巻)たという。昭和四十四年には、建築重要文化財に指定されている。
学事の整備拡充も積極的に図られた。奨学奨励もその一つで、三十二年の第一回の海外留学生派遣以来、二・三年に一度ずつ留学生が派遣され、この時期には林毅六、高橋誠一郎、小泉信三といった後に塾長を務める若き俊英が渡欧している。
また、義塾は三十七年に商工学校が新設して実務教育に乗り出し、三十九年には大学院を創設して学者専門家養成を本格的に開始した。学部レベルでは、三十七年に文学科が復活。上田敏と森鴎外を顧問として、永井荷風、小山内薫ら文壇で活躍する人々を教員に招き、教授陣の充実が図られた。
かかる整備が進められる中、四十年四月に創立五十年祭が開催される。アメリカ大使ライト、文相牧野伸顕、早大総長大隈重信らが列席の下、鎌田塾長は「旧日本を破って新日本を造った一大発動力、明治文明の先達となってきた慶應義塾が知名の齢に達したことは、塾においてだけでなく、日本社会において一つの紀元と申してもよい」と語った。
福澤の死から六年。創立五十年を迎えて体制の整備改定を進める義塾は、二十世紀日本の一大発動力として早くも再出発していくのだった。
日吉キャンパス開設
新しい人材教育の拠点に
当時の義塾は、林塾長が「最も重大なる問題は、敷地其物の余りに狭隘なることである」(「三田評論」三百四十八号)と述べるとおり、増加する塾生に対して施設敷地が狭すぎるという問題を抱えていた。
そこで塾首脳部がさまざま検討を進めるうち、昭和二年八月に東京横浜電鉄株式会社から沿線の日吉台の土地七万坪余りを寄付するという申し出があり、これを機に日吉へのキャンパス建設が決定されることになった。
日吉の新キャンパスへは、大学予科、普通部、大講堂、寄宿舎、体育設備などの建設が予定され、総敷地は約十三万坪。工事は昭和十六年頃の完成を目指して開始された。
昭和九年には早くも現在の第一校舎が完成し、五月一日から授業が開始されている。陸上競技場も同年春に完成し、秋には日吉開校記念祝賀会が開催された。
この祝賀会で小泉信三塾長は「先生の事業といふのは何であるか。即ち新しき時代のために新しき国民を教育すること、これであります」(「三田評論」四百四十九号)と強調し、新キャンパスにおける人材教育への決意を述べている。
日吉キャンパスは第一校舎に続いて第二校舎、大学部校舎と建設が進められ、次第に今日の姿に近づいていった。
戦時下の義塾
塾員、塾生二千人が犠牲に
塾出身の宰相犬養毅が五・一五事件によって暗殺された翌年の昭和八年、満州事件が勃発した。日本の政党政治が名実ともに終わりを告げ、国家全体が戦時体制へと再編される中、義塾も例外たることを許されなくなっていく。
昭和十六年の日米開戦後、次第に戦況が悪化するにつれて塾生の集団勤労奉仕は長期化し、学問の府としての機能は麻痺していく。それまで猶予のあった理系の学生も動員されるようになり、医学部生は医療奉仕活動に従事して、中には最前線で医療活動に当たる隊もあった。
戦時下の文教政策の中で、大きなインパクトの一つは修業年限の短縮であった。日米開戦以降、大学学部、予科、高等学校、専門学校などの修業年限が実施され、義塾も高等学校の廃校、商工学校、商業学校の生徒募集停止などに踏み切らざるを得なかった。十八年にはついに、文化系学徒の徴集猶予の特典が停止され、それまで在学中は召集されなかった学生にも赤紙が届くことになる。
義塾からの出陣学徒は、二千八百六十三人。その多くは幹部候補生として陸海軍へ入っていった。十月二十一日、雨の神宮で行われた出陣学徒壮行会はあまりに有名だが、義塾ではこの二日後に三田で壮行会を開催。三千余名の塾生が三田山上で塾歌、応援歌を熱唱し、隊列を組んで福澤諭吉の墓を詣でて戦勝を誓った。
ときの塾長小泉信三は、出陣学徒に対し次のように激励している。「今、別れに臨んで、特に新たに言ふべき事は何もない。私は諸君を知っているつもりである。諸君も亦た私の言はんと欲することをしってゐるであらう。たヾ言ふ。『征け、諸君。君国のために。父母の墳墓の地を護らん為めに』」(「三田新聞」祝塾生諸君出陣特集号)
学徒動員を受けて「教育界は之により極めて大なる影響を蒙ることゝなれり」と落胆した小泉塾長にとって、勇ましいこの言葉はむしろ、悲壮な響きをはらんでいた。
戦争によって義塾が蒙った傷は浅くなかった。昭和十九年以降、日吉は陸軍に貸与され、一帯に地下壕が掘られて、連合艦隊司令部など海軍の中枢が入り指揮をとった。このため、日吉は戦後も米軍に接収されることになる。
昭和二十年以降、本土空襲が本格化すると三田は大損害を受け、大講堂や図書館をはじめ半数以上の建物が焼失または取り壊され、四谷の慶應病院も大半が被災した。小泉塾長も自宅を失い、大火傷を負っている。
この太平洋戦争で戦死した塾員、塾生は二千人あまりに上る。このうち、学徒兵は約四百人。特攻隊でも三十六人が犠牲となった。失われた一人ひとりが、それぞれに無限の可能性を持っていたはずである。この犠牲は日本にとってあまりに大きなものであった。
創立100年
義塾の使命を再確認
昭和三十三年、慶應義塾は創立百年を迎えた。十一月八日に行なわれた記念式典の前日、塾長奥井健太郎以下約三百人の義塾関係者は大崎常光寺で福澤諭吉の墓前祭を行い、創立百年の喜びを報告した。奥井塾長は墓前において、「今日の世紀、国際的動向は百年の昔と趣を異にしていますが、極めて複雑にして困難な事態にあります。この間にあって、社会に先導し、将来の道をあやまることのない青年を育成することこそ、慶應義塾百年の伝統にかけての、われわれの使命であります」と慶應義塾の使命を再確認している。
新装された日吉記念館で開催された記念式典には、天皇陛下をはじめ、岸信介首相以下の閣僚、東大総長、早大総長らが列席し、NHK交響楽団の演奏で壮麗曲雅な雰囲気が演出された。
祝辞では、大浜信泉早大総長が、「福澤先生の遺された思想、教訓というものは、慶應義塾大学の精神的基礎であり、その生命の根源であると同時に、永遠の光明であって、この感化と刺激によって、これから次から次へと幾多の優れた学者、傑出した人材を輩出されるだろう」と義塾の精神と未来を称えた。
天皇陛下も、「慶應義塾が百年にわたり、福澤諭吉創業の精神にのっとり、青少年の育成に努め、幾多の人材を世に送り、国家社会の発展に多大な貢献をしたことは、私の深く多とするところであります。今後、更に協力一致して、此の輝かしい伝統を守り、我が国文連の進展に寄与するようますます努力することを望みます」とその将来に期待を示された。
この日は、新聞各紙も「慶應義塾百年、特色ある学風と伝統」(産経新聞社説)、「私学の将来と独立自尊」(朝日新聞社説)など大きく取り上げ、世論の関心の高さをうかがわせている。
また、義塾は創立百年を期して多くの記念事業を行なっている。その最も大きなものは、日吉記念館の建設である。義塾は戦災を経て、いまだ大きな講堂を持っていなかったが、ここに約七千席を持つ記念館が生まれたのである。
このほか、日吉では現在の藤山記念館が日吉図書館として新築され、体育館やプール、第四校舎も建設。三田でも図書館の増築をはじめ、南校舎、西校舎が建てられるなど、キャンパスは現在の状態に近づくようになる。
大学紛争と義塾
日吉にストと闘争の嵐
昭和四十年の学費改定問題、四十三年の米軍研究費資金導入問題などで火がついた学生運動は、四十四年に入り、大学立法反対闘争という形でエスカレート、日吉はバリケードに閉ざされた。
この後、大学側から学費値上げが打ち出される度に、義塾にはストと闘争の嵐が吹き荒れることになる。最も事態が深刻化したのが、四十七年から四十八年にかけての学費反対闘争であった。四十八年には工学部と通信教育課程を除き、卒業式なしという異例な事態も起こっている。
昭和四十七年十一月、学費改定に関する説明会を粉砕した自治会は、暮れからストライキに突入。翌年五月には、黒ヘルメットで身を固めた一団が日吉教務部、学生部を襲撃し、器物を破損する事件も発生した。ストは半年に及んだが、一般学生との温度差が表面化した六月一日、「日吉全学生大会」が開催され、スト解除が決定、黒ヘル集団は逃走する。
学費反対闘争はこの後も継続するが、次第に暴力集団と一般学生との距離は開いていった。昭和五十年十月に発表された学費改定でも、主に自治会系の学生が構成する反帝学評が、反対闘争が盛り上がらないことに業を煮やして塾監局を襲撃、器物を破損、職員を負傷させるという事件が発生している。これに対して久野洋塾長は、「学問の府にあるまじき不法行為は断じて許すことができない」と警告を発した。
この値上げ反対をめぐっては、医学部進学課程自治会が翌年一月から試験ボイコットを敢行、塾当局との折衝が続いたが、結局「授業が受けられなければ留年の可能性がある」といった塾生の現実的な声が高まり、六月にストは解除されている。
翌年の昭和五十二年には、商学部で入試問題漏洩が発覚し、問題作成にかかわった教授が懲戒解雇される事件が発生。数カ月にわたって新聞各紙が取り上げる事態になった。日吉自治会はこれを受けて、「事件の解明は学生の手で行なわれなければならない」として、塾長、商学部長に大衆団交を要求、ストに突入した。しかしここでも自治会側と一般学生の足並みはそろわず、ストは十一日間で中止されている。
その後の妥協を許さない塾当局の姿勢の前に自治会側の指導力も低下、大学紛争は冷戦の崩壊とともに急速に熱を失っていった。
1985年の義塾
野球とラグビーが日本一に
慶應義塾の名が新聞紙上をにぎわせた年、それが昭和六十一年(一九八五)である。
まず、秋の東京六大学野球で塾野球部が破竹の十連勝で五十七年ぶりの完全優勝を達成。前田祐吉監督が、「こんな素晴らしい選手たちと一緒に野球ができたことが、とてもうれしい」と語ったチームは、エース志村亮、鈴木哲らの投手陣を中心に、芳賀映朗、仲沢伸一ら打撃陣も好調で、ベストナインのうち慶應が六人も占めるという充実ぶりだった。塾野球部はこの後明治神宮野球大会にも出場し、愛知工大を破ってみごと優勝、学生日本一に輝いた。
さらにラグビー。慶應タイガーはこの年、上田昭夫監督を中心にTB若林などの俊足をそろえて対抗戦二連覇を目指すが、早慶戦に敗れるなど不調だった。しかし、大学選手権では準決勝で早稲田に雪辱を果たし、悲願の決勝進出。決勝の明治戦では終了前のチャンスを逃して同点両校優勝となるが、抽選で日本選手権出場を得て、トヨタ自動車と対戦した。ここで慶應は圧倒的に不利な下馬評の中で、スクラムで対等に渡り合い、若林、太田が俊足を活かして二トライ、初の日本一に輝く。
上田監督は、「チームの力が向上し続けたことが勝てた最大の要因だと思います。あとは選手が自信を持ってくれたということですね」と胸を張った。
SFC創設
日本の大学改革の先駆けに
昭和六十一年には、義塾にとって大きな出来事があった。湘南藤沢キャンパス(SFC)構想の発表である。
「科学技術が進み、工業化・情報化が発展して社会が複雑、流動的、不透明になるにつれ、新しい学問領域が生まれてくる。そして時代の変化に対応する人間の新しい能力の養成が求められるようになる」(石川忠雄「禍福はあざなえる縄のごとし」)という問題意識を持っていた石川塾長は、昭和六十一年の年頭挨拶で新学部の設置を表明。以降、若手の教員が中心となった検討委員会で構想の具体化が進められた。
当初から掲げられた新学部の方針は次の五点である。
・人間と環境の重視
・情報および情報処理能力の重視
・総合化の重視
・国際性の重視
・創造的能力の開発
新キャンパスの建設は神奈川県藤沢市に決定、翌六十二年には「二十一世紀の実学」と銘打った具体的構想が発表され、政治、経済、法律、文化などを組み合わせた学際的な研究を行い、政策立案・問題解決を能力の養成を目指す「総合政策学部」と、社会的・人工的環境の情報処理による認識を通して管理運営やコントロールのあり方を研究する「環境情報学部」の二学部の設置が決まった。
入試制度では、自らの能力や特技を活かして自己推薦するAO(アドミッション・オフィス)を日本で初めて導入、現在多くの大学で採用されている。キャンパス全体に無線LANネットワークが張り巡らされるなど、IT教育に力を入れたことも先進的な特徴であった。
この後、キャンパス建設や細部のカリキュラム編成などの準備を経て、平成二年(一九九〇)、湘南藤沢キャンパスは義塾第五のキャンパスとして発足する。「学際」「情報」「国際的」など時代のキーワードを掲げたSFCは、日本の大学改革の先駆けとして一九九〇年代を彩ることになる。
世界の義塾へ
「時代」を担う人材輩出
義塾は創立百五十年、さらには来るべき二十一世紀に向けて数多くの取組みを展開してきた。平成五年に四期十六年間塾長を務めた石川忠雄氏が退任し、鳥居泰彦経済学部長が塾長に就任。新川崎タウンキャンパスや丸の内シティキャンパスの開設など、学術事業と交流事業の面で飛躍的な発展を遂げた。長期基本構想のスローガンには、「日本の慶應義塾から世界の慶應義塾へ」を掲げた。
そして平成十三年、安西祐一郎塾長が就任。「慶應義塾二十一世紀グランドデザイン」を発表し、二十一世紀を先導していく義塾の使命と意志を明確にした。
今年四月には、新しく二つの大学院を設置したほか、義塾第十番目の学部として薬学部・大学院薬学研究科を増設、九月には日吉キャンパスに協生館が完成し、グローバルスタンダードの大学を目指して着々と準備が進められている。
二十一世紀、「世界の慶應義塾」を目指す義塾にかけられた使命は、単に比類なき大学として君臨することではない。建学以来、自らに「時代の先導者」としての使命を課し続けてきた学塾が担うもの、それはあくまで「時代」である。安西塾長は本紙インタビューで、次のように述べている。
「独立自尊の精神は、むしろこれからのグローバル時代に要求される。だからこそ、慶應義塾がグローバル時代を担っていけると思う。慶應義塾から、グローバル時代のリーダー、先導者を輩出していきたい」。
トレンドを追うのではなく、自らが時代の筋道を創り出していく。塾祖福澤諭吉から始まった慶應義塾の百五十年は、社中一同が結束して「先導」という轍を残してきた。大きな節目を迎えて新世紀へ、その活動の舞台は世界へと広がる。
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